カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知について」110頁より: | 真田清秋のブログ

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 『どうしても自分の業績について語らねばならない場合は、平静に、ただ事実に即して語るということは、一つの大切な心得である。人によっては、自分の仕事をあまりにも自慢しすぎて相手の(明らさまな、もしくはひそかな)反感を掻き立てたり、また人によっては、自分の仕事をわざと軽蔑して投げやりな口調で語り、こんなものなら他にいくらでも貯えがあると仄めかしたりするのが、世間普通である⭐️。一番いいのは、およそ自分の業績についてなるべく語らないこと、いずれにしても自分の方からはそこに話を向けないことである⭐️⭐️。なぜなら、虚栄心はすぐ人に気づかれてしまうもので、ごく単純な人にさえそれはわかるからである。虚栄心は名誉心を人に悟られないためには、そうした性質をすっかり無くするより他に、確実な方法はない。

 ⭐️ それゆえに、誰一人疑うものもないような古い家柄の貴族が、貴族の称号である「フォン」を省略したり、もう十分有名だと信ずる著作家が、以前の著書に付けた肩書きをすべて取り去ったり、また、大金持ちの婦人が装身具を一切身につけなかったりするということがよく起こるのである。

 ⭐️⭐️ だから、自叙伝というものも通常、伝えられる当人の記念のためには都合のいいものではない。自伝の著者は自分の最もすぐれた点を省略しなければならないか、それとも、虚栄心でそれを書いたという嫌疑受けるか、いずれかである。

 

 若い人が謙遜でなかったり、あるいはあまりにも自信に満ちて少しのはにかみもないような場合、その人は性格に欠陥があって、実際の役に立たない人であるか、それとも、少なくともひどく早熟で、もはやそれ以上進歩しない人である。謙遜では世の中は渡れないという、世間に広まっている偏見は、一時的成功を問題とするのならともかく、さもなければ間違った考え方である。

 

 悪い知らせの使者に立ちたがる人が少なくないが、それは極めていかがわしい、ともかくも馬鹿馬鹿しい好みである。この動機は恐らく人によってまちまちであろうが、たいてい一種の優越感と結びついている。それは、他人が打ちのめされて悄げる様子を見たいという気持ちで、往々人の不幸をよろこぶ意地悪な卑しい感情である。それは相手方も本能的に感じ取るもので、その時の思い出は兎角(とかく)その嫌な気持ちを起こさせた人と結びついて、その後も長く消えないものである。

 

 また一度も大きな苦痛や、自我の大敗北を経験せず、打ち砕かれたことのない人は、何の役にも立たない。そういう人達は、どこかケチ臭いもの、高慢で独善的なもの、あるいは不親切なものをその人柄に残している。そのために彼らは、普段大いに公正の精神を自慢するのもかかわらず、神にも人にも嫌われるのである。

 

 親切な気質を持たない人には、常に用心しなければならない。意地悪い天性を克服するのは極めて困難である。こうした気質は、嘲笑癖を伴うので、たやすく見つけることができる。

 

 これに反して、周りの人を気軽にさせる人や、いつも気分にムラのない人、常にやさしくて親切な人、決して神経質にイライラしたり押し付けがましくない人、他人の幸福を喜び、不幸には同情して慰めてやる人、このような人達は大変気持ちの良いものである。こういう人になるには、決して多くの才気を要しない。反対に、あまり才気豊かな人はあいにくとこういう性質を欠くことが多い。これがあってこそ、彼らはもっている他のあらゆる性質も初めて有用な価値あるものとなるであろうに。

 

 真に勇気あるかどうかは、平時には大変見分けにくい。間違いのない目印が一つある。すなわち、勇気ある人は決して傲慢な気持ちで戦いにのぞまない。敗れた後よりも、むしろ勝った後で惧れる、ということがそれである。なぜなら、いかなる勝利も必ず、相手に加えられた幾らかの不正を含むからだ。ところが臆病者は勝つたびごとに傲慢になる。そういう性質に関して、人は夢によって自分を知ることができる。夢の中では、人はあるがままの自分を見る。つまり夢では、単に感情的かつ心的興奮に基づくより以上の、高い意志の支配を脱して、あるがままの自分が現れるのである。

 

 ある人の狡さは、常にその人に対するわれわれの敬意を引き下げる⭐️。われわれは、その狡さがわれわれに対して用いられると考えるのだ。だから、諺にもいうように「結局、狐(キツネ)はみな毛皮屋に集まる」ことになる。誰もそのような人間を愛しはしない。全体としてみれば、彼らはやはり勝負に負けるのである。

 ⭐️ 古いユダヤの格言は「猫の頭になるよりも獅子の尾になれ」言っている。

 

 人はそれぞれ自分の型を完成しなければならない。どこの国の人間か、まるでわからないような人は、不愉快な現象である。だから、国境近くの住民はいかがわしい性質を持っているのが多い。多くの国言葉を話すことも、一般に、天才の印ではなく、また優れた性格の印でもない。最もいかがわしい者は、一つの文章の中に、いろんな国の言葉をごっちゃ混ぜにする人である。そういう人は、さらに教養が欠けている。

 

 人の外貌には、大体あまり重きをおいてはならない。人相学は、一般的に言って、誤魔化しの学問である。しかし、顔の上半部に対して下半部が著しく発達しているとか⭐️、見窄らしい顎とか、表情のない眼とか、たえず落ち着かぬ、何か探すような眼差し⭐️⭐️とか、あるいは婦人のあまりに大声の話し振りなどは、いい兆候ではない。夫人の無邪気な表情が、真似ようとしても決して真似られないのは、幸いなことだ。

 ⭐️ だから、もし私が君主ならば、役人達に総髭を蓄えることを許さないだろう。それは顎を覆い隠して、往々、顔にすっかり間違った表情を与えるからである。

 ⭐️⭐️ あだっぽい婦人や野心の強い人達の場合、彼らが制しきれないこうした猛獣のような目つきは、大抵、彼らの内心の気持ちをそっくり現すものだ。いわゆる「つき刺す」ような目付きは、男では暮らしぶりのだらしなさを示し、厚ぼったい唇は享楽欲を、への字なりの口は嫉妬か気難しい気質を現している。ともあれ人相も、性格によって良くも悪くも作り上げられるものだ。だから、「この世にも一つだけ正義がある、顔つきは心掛け次第だ」という諺があるのである。

 

 写真が大いに普及したことは、人間を知る上で非常に有害であった。なぜなら、人は普通、写真をもとにして人々の間違ったイメージを描き、したがって先入観にとらわれるからである。

 

 人の活動が有用であるかどうかは、大部分、そに人が同時代の間に一種の信任を得ているかどうかにかかっている。ところで、この信任状を与え得るのは神だけであり、しかもそれは一般に、すぐれた人の場合は、晩年になって初めて出されるのである。全ての「家づくりの石」がまず投げ捨てられねばならぬ⭐️。これがただ一つの正しい道であって、どんな種類の野心的努力を持ってしてもこれに代えるはできない。

 ⭐️ 出エジブト記一九の九。ヨハネによる福音書三の一七、五の三一。詩篇一一八の二二。ヨシュア記一の一七、三の七、四の一四。マルコによる福音書一二の一〇・一一。

 

 独創的な人物と知り合う場合、普通、三つの段階を経るものである。初めの段階では、思わず知らず好きになる。第二の段階では、その人のいろんな圭角や特殊性にむしろ反撥を感じる。しかし第三の段階では、その人柄全体に好感を覚えるのである。ところが、平凡な人達の場合、第一印象は取るに足らないが、次の印象は彼らのいろんな個々のいい性質のために前よりもよくなる。しかし最後は満たされない感じが残る。大体としては、人から受ける第一印象は、こちらが全くとらわれない気持ちでいる限り、正しいものといえる。

 

 とりわけ難しいのは宗教上の人間知である。これを得るには、ヨハネの第一の手紙第四章1ー六節と第五章1ー五節とに頼るのが最も容易である。しかし、それだからといって、哲学的教養や立派な聡明さ、あるいは人生経験などに基づく一種の人間的美点が、全然問題にならないわけではない。どのような敬虔でも、その人の心より一層親切にするものでなくてはならない。さもなければ、それは本物ではない。

 

 敬虔ではないがしっかりした人と、しっかりしていない(少なくとも常にそうでない)が敬虔な人(本当に敬虔なのだ、そういう人もあるものだ)と、およそそのどちらを選ぶべきか。これこそ、われわれの見解と神のそれとが必ずしも一致しない点ではないか、と私は惧れる。(ルカによる福音書五の三二)。

 

 気高い行いをするのは、間々、義務に忠実な行いをするよりもたやすく見える。特にまだ若い人達には、そう思われる。よろしい、では、しばらくそのようにやり給え。だが、一方の行いができるようになったら、さらにもう一方の行いも習わなければならない。さもなければ、君の生活はただ結構なーー中途半端に終わるだろう。

 

 罪の罰が三代四代に及ぶということは、神慮がまだその間はこれらの世代の人達の上に働いているという意味でもある。およそ人が出会う最悪のことは、このような神罰ではなく、神がその人々を見捨てて今後まったく彼ら自身の本性と意志とに委ねることである⭐️。したがって、神罰は悪人にとっては常に恩赦令であり、幸福の連続こそ永劫の罰である。 

 ⭐️ 出エジブト記二〇の五。ルカによる福音書一三の八。マタイによる福音書二四の三八。サムエル記上一五の三。

 

 全くむら気がなくて、いくらか冷やかで、と言っても利己的でなく、むしろ誰にも愛想よくやさしい気質は、恐らくみんなに好かれるのに、最も都合のよい性質であろう。こういう人達は、特別に「愛すべき人」として通り、世間一般から重んじられる。その癖、たいてい、世の中の進歩にはこれといった目立った実際の貢献もしないのに。それだから、賢明にもそういう気質を器用に身につけようとする人達さえある。だが、このような愛すべき人々は、結局「一般の才能埋も」らせたのではないかどうか、それはまた別個の問題である。

 

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