カール・ヒルティ、『幸福論②』・「人間知についに」94頁より: | 真田清秋のブログ

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 『とにかく、これは誰でも自分自身で試してみることができる。人が神と平和の関係に入れば、普通世間で最も重んじられる人間の側面、すなわち、彼らから何か利益を受けるという側面で人間を重んずる心が、たちまち無くなってしまう。そして、こちらから与えるものがない場合は、彼らからすっかり離れ去ることも容易に出来るであろう。だから、古代中世の隠遁生活や近代のあらゆる厭世主義、または世界苦を看板とする貴族主義には、常にその動機においていささか疑わしいところがある。その背後には大抵、人から与えられないための不満や、人に与えたくない気持ちなどが隠れているのである。このことは他の人たちも容易に感づくので、したがって普通誰もがそのような隠遁者にはあまり好感をよせないのである。

 というのは、人間は、何よりも他人の利己心に対する鋭い本能と、大きな内的嫌悪を持つからである。どのような単純な者でも、いや幼い子供でも、それどころか動物でさえも、相手がどんなに上手に上部を装うとも、すばやく利己心を嗅ぎつけてしまう。人に対しては良からぬ(したがって長続きしない)動機からではなくて、強い感化を与えたいと望む者は、絶対に自分のことは念頭においてはならないし、また自分のために求めるところがあってはならない。これが、その望みを達する最も確実な道である。だから子供達が両親よりも祖父母の方になつくことが多いのは、祖父母の愛情の方が無私だと感じるからである。両親はまだまだ自分たちのことで手一杯なのである。どんなに不機嫌な厭世主義者でもやはり他人の愛情を求めるし、利己主義者たちが利己主義を讃美するのも、所詮は本気でそう思っているのではない。いや彼は自分のやり方が変えられないことに絶望しているわけで、他の人々の実践を絶えず見ることで教えられる他ないのである。彼らは、愛についての空々しい極まり文句などはとっくに承知していて、そういう言葉に対しては彼ら流の常識的価値しか与えないのである。だから、彼らを相手に愛について語るのをやめた方が良い。それは誤解を招くだけだ。彼らと話すなら、むしろ親切とか、一般的な好意とかについて話すだけにしたが良い。好意というののは一見些細なものに見えるが、実際は大切なものである。好意は、この世に対すて嫌悪を抱かずにこの世を生きるために絶対に無くてはならぬものであり、したがって、われわれが是非とも自分のものとしなければならないものである。

 

 それぞれの個人についてその人間を知る上で一つの大切な点は、その素性を知ることである。ことに女性は、ほとんど例外なく、その家庭の性格を承け継ぐのもであり、息子は母か祖母の性格を伝えるのが普通であるが、娘はむしろ父系を承けるものである。それゆえ、「林檎は幹から遠くには落ちぬ」という諺は、実際確かな推定を現している。ただし、われわれはしばしばその幹を十分に知り得ない場合があっても人は神の恩恵によってそれを打ち破ることができる。そればかりでなく、こうした神の恩恵や人間の意志の自由をまったく無効にするほどの「悪質の遺伝」が存在しないのも確かである。このような絶対に変更されない宿命を仮定することは、およそ人間が犯しうる最大の瀆神(とくしん)の一つである。これに反して、上に述べたように限られた意味で、一種の貴族的な考え方は正当なものである。たとえば、勇気とか、正しい自信とか、生まれつき人怖じせぬ性質とか、生活態度全般の上品な趣味など、ある人間の個々のすぐれた特性は、奴隷状態や圧制の軛(くびき)からやっといま解放されたばかりの初代の人達には普通生じないものである。そういう特性は生じるためには、たしかに遺伝が必要である⭐️。だから、政治的あるいは精神的自由の偉人で先駆者たちはすべて、最下層の庶民階級から出たことが殆どなく、多くはすでに普通の教養をつんだ中流階級の出身者である。いや、それどころか、貴族階級自身から出た場合もしばしばある。こう考えてくると、高い教養の人が、自分よりも教養の程度が低いものと

結婚するとしたら、それも大きな誤りであり、自分の子供に対して過ちを犯すものだといってよいくらいである。その人は、その結婚によって一段階だけ後戻りしたことになる⭐️⭐️。

 ⭐️ 少なくとも私は、ずっと卑しい人々の息子で、富貴に対してひそかな敬意を懐かない者に会ったことがない。

 ⭐️⭐️ これと同じ見地からして、古代ドイツ法によれば、身分違いの結婚をした男爵はその身分を失い、その子供たちも「あしき手」(劣った家系)に従わねばならぬことになっていた。

 

 しかし、そういう場合は、自分に対しまた他人に対して、ある種の適当な処置を取ることがおそらく必要であろうか、それを特に両親や教育者たちはしばしば忘れがちである。誰でも、その生まれつきの気質をすっかり変えてしまうことなど、出来るものではない。むしろその特質をそのまま純化することの方が、はるかに容易である。つまり、粘液質の人は英知の気高い落ち着きに達し、活潑な人は他人のための犠牲的活動に赴き、また胆汁質の人はあらゆる偉大なものを力強く保護することが出来るようになる。こうした天性を誤って判断したり、またはそれを打ち壊そうと試みたりすると、たいてい中途半端の気の毒な状態で終わることになる。さもなければ、そうした素質から何か完全なものが出来上がったであろうに。

 

 われわれがある人を本当に知るには、その人が働いている時、すなわち、男子ならばその職場で、女性ならば家事で働いている時が一番よい。また、男女ともその人柄の最もよくわかるのは、彼らが困難や心配事に陥っている場合であり、逆に最もよくわかりにくいのは、社交場、特に温泉地や夏の避暑地などである。そういう場所での知り合いは、後で間違いだったとわかることが多い。これが大体、現代の不健康な交際法である。互いによく相手を知りもせずに、毎日一緒に暮らしたり食事をしたりするだけで、とにかく知り合いになる。そういう場合は、あまり引っ込んでいると高慢だと思われかねないし、またあまり開けっぴろげに振舞うと、いつもなら避けたかもしれないような関係を結ぶ危険さえある。

 最も容易に人間を見分けるには、その人が生涯の努力の真の目標と考えているものを知らねばならない。もしもその目標が、権力とか享楽とかにあるならば、そうした人には全幅の信頼を寄せるわけにはいかない。』

 

 

               清秋記: