カール・ヒルティ、『幸福論②』・「わが民を慰める」86頁より: | 真田清秋のブログ

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 『こういうことは、実際、たんに遠い過去の時代の人々のためにのみ書き記され、親しく体験され、あるいは経験されたものであろうかーーもっとも、遠い時代とはいえ、その事件や状況が現代のそれに似ているし、強大な隣国に挟まれた小民族の外的危険も現代に劣らないことが示されてはいるがーー。それともわれわれは、それをなお今日、自分のこととして考えてよいであろうかどうかは、実地に試してみることができるのである。

 われわれはまた、将来再びこのことが、これまでよりもいっそう一般的に試されることを期待する。宗教的基盤によらずに、他の方法で、人間の静かな満足や悦ばしい健全な仕事を生み出そうとする試みがすべて失敗だったとわかり、しかも神経病にかかった人類が、ふたたび、単なる唯物論世界観によって与えられる以上の真の安静と、◯(こう)じゆく厭世感に対する保護とを切望し始めるや否や、そうした宗教的試みがなされるであろう。そうすれば宗教はーーといっても、それは一切の外的権威を捨て去って、再びそれを取り入れることのない宗教でなければならないがーーそのような更新時代のために、すでに旧約の一預言者は予告している⭐️ような地位を、諸民族の生活において新しく占めることになるであろう。ところが今では、宗教は往々にして、暇な人達や、世間的な意味で幸福な人達の、単なる感情の遊戯になりがちで、難儀や心配に苦しみ、救いの手立てとして宗教を必要としている人々には、偏見のためにその道が閉ざされているのである。

 ⭐️ エレミヤ書三一の二三ー三四、二の八ー十九(なおゼカリヤ書一三の八・九をも参照)。おそらく、その時になれば、神の古き民も、彼らの祖先が創世記第四九章一〇節において述べている最後の予告の意味を悟るであろう。この予言からヒルシュの注解(六一三)は、極めて明快な結論を引き出しているが、実はまだ最後の断案だけは下されていない。

 

 けれども、このような宗教を必要とする人々の多くは、おそらく遠からず、この古い、今ではほとんど埋もれてしまった水源に辿り着くであろう。しかし彼らは、今はまだそこから遠く離れていて、心を安らかにする人生観を渇望しながら、どこへ訪ねて行っても、その渇きを癒し得ずにいる。なぜなら「そもそも、イスラエルに長い間、まことの神がなく、教えをなす祭司もなく、律法もなかった。」「そのことは、出るものにも入る者にも、平安がなく、大いなる騒乱が国々のすべての住民を悩ました。国は国に、町は町に打ち砕かれた。神が諸々の悩みをもって彼らを苦しめたからです⭐️。」

 ⭐️ 歴代志下一五の三・五・六。

 

 しかし、諸君、救いと平和とに到る確かな道をゆく人々よ、「しかしあなた方は勇気を出しなさい。手を弱くしてはならない。あなた方の脇には報いがあるからです⭐️。」

 ⭐️ 歴代志下一五の七。

 

     米   米   米

  

 私たちの希望なる愛する師よ、霊の主よ、

 あなたの恵みとあなたの真、常に私たちとわが民の上に

 すべての家と心の上に留まりて治めたまえ。

 悲しみの雲を貫きて信仰の眼を天へ向けさせ給え。

 私たが気ままに駆ける時、滅びの中に堕ち、

 深き淵の底に沈んだのです。主よ、救いは御元にのみ。

 あなたによって奴隷の身から救われた魂は幸いです。

 ただあなたの御手がわが身に触れる時、私たちは誠に自由です。

 私たちは罪の本能から解き放たれ、堅く御胸に抱かれて、

 あなたの愛の悦びに浸り、幼な児のように故郷へ帰ります。』

 

 

               清秋記: