『神が人間に「宿る」ことができるためにはまず原則的に捨て去らねばならぬものは、享楽と、名誉と、そして人間への依頼心とである。ところで、このようなものをひとたび捨て去った時に、おのずから次第にその人から消え失せるものは、恐怖と、怒りと、苦痛な無力感と不安である⭐️。これらは「神なき人々」に必ず与えられる相続財産であり、彼等の目印である。これこそ本当の道というものであって、この厳しい曲がり角を、わずかばかりの哲学的考察や、あるいは少しばかり「主よ、主よと言うこと」で回避できると信ずる人たちは、どどのつまりはおそらく最も多く騙された者であろう⭐️⭐️。
⭐️ イザヤ書五七の一一。こういう人たちは生涯の長い期間には、欲しいものをいろいろ手に入れることもできようが、平安を得ることはできない。トマス・ア・ケンビスはこれについて次のように言っている。「我が子よ、いまお前に平安と真の自由との国へ入ることを教えてやろうと思う。(1)つねに自分の意志で従うよりも、むしろ甘んじて他人の意志に従え。(2)すべて滅びる物は、多い方よりもむしろ少ない方を選べ。(3)自分の値打ちをむしろ低く考えて、よろこんで他人に服従せよ。(4)つねに神の御心がお前において完全に行われるよう願い、かつ祈れ。かような心構えを持つ者は平安と安息の国に足を踏み入れる人である。」(「キリストにならいて」三の二三)
⭐️⭐️ マタイによる福音書二三および二五。なお後に掲げる論文「キリスト教序説」を参照せられよ。しかしこの章では、さしあたり。われわれのうちにあって除くものについて語り、われわれによって捨てられねばならぬものについては語らない。
恐怖は、おそらくすべての人間的感情のうち最も苦しい、いずれにせよ最も無価値なそれにもかかわらず最も避け難い感情である。なぜなら、人生はまさに戦いから成っており、戦いに対する自然の恐怖は、誰でも自分の内から追い払うことができないからである。ただ、より高い見地に立つことによって、恐怖は心の中で克服できるだけである。
恐怖をこのように克服することが、果たして古代のストア哲学やカント哲学でできるかどうかという問題は、ここでは取り上げずにおく⭐️。われわれは、そういう生き方にケチをつける考えは毛頭ない。ただわれわれの言いたいのは、恐怖の克服のためにはもっと確実な道があることである。しかもこの道を行くには、さほど高い教養も性格の強さもいらず、またこの道は単に哲学的教養をもつ精神的貴族たちに対してのみでなく、あらゆる人々のために開かれているということである⭐️⭐️。もしもそうでなかったとしたら、そして、キリスト教が貧しい人々や小さい人たちを塵の中から救い上なかったとしたら、いわゆる「超人道徳」がもうとっくにこの世を絶対的に支配していたであろう。というのは、あの当時(ニイチェの時代)「幸福論」第一部の「エピクレトス」ろ「幸福」という二つの論文で述べておいた。「キリストにならいて」三の二三。
⭐️⭐️ ヨハネによる福音書八の三一、七の一七、六の三五・六八、一の一二、マタイによる福音書一一の二五。
⭐️⭐️⭐️ おそらくこれが、キリストの受ける「試み」の確信であったであろう(マタイによる福音書第四章)。今日でも、偉業を成し遂げる素質をもった人々がこの試煉に負けている。キリスト教は、かつて出たこともなく、これからも出ないような最も教養の高い人(キリスト)において、教養の貴族主義を永久に捨てたのである。これがキリスト教の最も偉大な事業の一つであるが、しかし同時にこのことが、世の教養ある人たちの間に存するキリスト教嫌いの内的理由である。もっとも、多くの人々はこのことを十分に自覚しているわけではないか。
ただキリストと共に宗教的感情に浸ろうとする感傷的な子羊の幸福も、あるいはまた、キリスト教とは絶え間ない苦しみと戦いとの連続であるとして、その涙の谷の有り様を描いて見せることも、いずれも今や誇張である。キリスト教の道は決してそういうものではない。それどころか、あらゆるほかの道よりも、実際において、はるかに容易である。なぜなら、この道はただ勇気ある人を求めるばかりでなくて、また勇気ある人を作り出すからである。そして、このような人々は、あらゆる哀れっぽさからも、あまりに過度な享楽からも(たとえそれが正当な物を楽しむのであっても)遠ざかると共に、どんな場合にも臆病な遁世を求めることなく、この世の真っ只中において⭐️、善の旗印を高らかに掲げ、善の勝利に決して絶望することのない人々である。
⭐️ ヨハネによる福音書二一の一八。弟子たちは当時明らかに、彼等の以前漁業に、おだやかに戻りたい意向をもっていた。ローマ人への手紙第八章とヘブル人への手紙第十一章は、あらゆる感傷や苦難の喜びから離れ、しかもあらゆる恐怖からも脱却した、勇敢な気分の表現である。われわれはパウロが出会った苦難や危険の大部分を知る由もないが、そうしたものを彼がほとんど意に介しなかったことは特に見事である。コリント人への第一の手紙一五の三二。コリント人への第二の手紙四の八、十一の二三ー二七。』
清秋記: