カール・ヒルティ、『幸福論①』267頁より: | 真田清秋のブログ

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 『それゆえ旧約聖書は、この関係を常に、双方に権利のある契約にたとえている。自分の方からこの契約を正直に守ろうと思う者は、自分の権利をあまり強く主張する必要はほとんどない。彼はむしろ、彼に果たすべき義務は多々相手の契約者に対する純一な、ゆるがぬ信頼ということに過ぎないけれども(ヘブル人への手紙11章)、それでもなお自分の義務履行の持ち分をいつも充分に満たし得ず、したがって常に相手の純粋な恩恵を必要とする、ということを充分よく自覚しているのである。ルターは聖書以上に(ローマ人への手紙三の二八)この恩恵を強調しているが、しかしこれは、人が悪から完全に救われるためには彼の方からもまた必要とする回心の不動の努力と、その基盤を自由意志に従って維持する力とを、時にはいくぶん弱めることがある⭐️。

 ⭐️ もし彼が、偽りの神々に従うのであったら、少なくとも、幾度も繰り返して力強く回心しようと思わねばならぬ。そうすれば、彼はまた幾度も神の許しを受けるであろう。エレミヤ書二九の一三、イザヤ書一の一八、四〇の三一、四三の二五、五一の二二、エゼキエル書一六の六三、一八の二五・三一、ホセア書十四の四ー六、マタイによる福音書九の一三、ヨハネによる福音書六の三七。それゆえ、使徒パウロもまた、キリストの教えがその心の中に強く成長した人(単に受け身に耳を傾けただけではない人)にあっては、もはや生命に必要な賜物のいささかも欠くることがない、と言っている。(コリント人への第一の手紙一の七・八)その反対に、元来よい素質を持ち、じゅうぶん教育された人であっても、往々にして一切が無効であることがある。(エレミヤ書六の二九)人は自分で自分のために決然たる回心をなしばかりでなく、何らかの力強い衝撃や、呼び声を経験しなければならぬということも、われわれは承認する。しかし、この時彼は神の声を聞き、そしてこれに従わなければならない。すべてこれらのことは神学でも教える。が、その言葉あまりにも教義的で、今日多くの人たにはほとんど全く理解されない。もっと簡単に、心理学的にこれを論証すべきである。

 

 この見地に立てば、世界は個人の生活と同じように明瞭な、理解されうるものとなってくる⭐️。一方には、世界を創造し、これを支配して、しかも自らはいわゆる「自然法則」などに決して縛られない、一つの自由意志がある。しかし、それをなお「秩序の神」であり、法則であって、決して気ままに支配することを欲しない。これに対して一方には、人間の自由意志があり、これか神に従うことも、従わないこともできる。人は悪をも、すなわち神に背くことをも、自分の責任であえてすることのできる、完全な自由が与えられているわけだが、しかし、神の秩序を破壊する力は持たない。神の秩序は、むしろすべての悪を善に向けかえるものであるが、しかし、故意に悪を行って悔いない者は別である。人間の生活は、その正しい発展においては、永遠に変わらぬ神の法則に従う順従であり、また、それによってますます高まってゆく精神的な生活秩序への自己教育である。さもなければ、そうした能力を自己の責任で次第に失って行くことになり、これはいわば一つの自己処罰である。人生の幸福は、神の世界秩序との内的一致であり、こうして神の側近くあるという感情であり、不幸は、神から背くことであり、たえざる内心の不安であり、生涯の終わりになんらの収穫をも残さないことである。

 ⭐️ 世界の方が、個人の生活よりも、確かに理解しやすい。個人生活は成長ということをその本質とするために、その時々の不完全な認識しか得られない。神のみが人間を知りたもう。人間は自分自身を知らない。「おのれ自身を知れ」という古代哲学の有名な要求は、一つの愚昧である。この点では、あらゆる自伝や日記的な自己省察がまた同様である。人間は決して自分のありのままの姿を見ない。ただ自分で進んでいく道を見るだけである。それも登山の時と同じように、ただ一段一段と、近距離を見るだけである。遠方を見ようとすれば、きっと間違うのである。』

 

 

                 清秋記: