カール・ヒルティ、『幸福論』261頁より: | 真田清秋のブログ

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 『一切の存在および生成の根源としての神は、説明することも、証明することもできない。また、そうすべきものでもない。むしろわれわれは、まず第一に神を信じ、その上で身をもって経験しなければならぬ⭐️。これは、繰り返して言っておかねばならぬ命題である。また実にこれは、万物のより良い学問的説明を求める人たちが、たいていここで踵(きびす)をかえすつまずきの石であり、憤りの岩である。こういう人たちはもはや仕方がない、もちろんこちらから進んで迎えるわけにはいかない⭐️⭐️。はっきりした無神論者を、われわれは哲学的に見捨てなければならぬ⭐️⭐️⭐️。だが、このような要求は、哲学的・宗教的領域においてばかりでなく、また実践的・政治的領域においても、その内に次第に影をひそめるであろう。ただし宗教の問題においては、信ずるか信じないかの一点、ただこの一点にのみ、超えることのできない障壁がある。そしてこの障壁は、同じ国民、同じ程度の教養、同じ時代の人々、さては同じ家族の中でさえ、人々をその根本的な見解において分つものである。その他の障壁や隔たりはすべて和解できるものであり、和解の道がきっと見出されるであろう⭐️⭐️⭐️⭐️。

 ⭐️ あなたがたが神を信ずれば、神の栄光を見るであろう、とキリストは言っている。「神に対する畏れ」は単なる感情ではなく、精神的には知ることであり、道徳的には行なうことである。そしてもちろんこれは小事から始まる。これに反して、人が一度神を捨てるという決心をしたなら、あるすぐれた学者が言ったように、自責の声が容易に静まらず、遂には、自分を正当化するために、この背信を詭弁的に進歩とみなし、忠実な時代遅れの立場として軽蔑しようと無理な努力をするようになるであろう。(ヒルティの旧約聖書注解)レビ記、六九八ページ参照)

 ⭐️⭐️ われわれはせいぜい、彼らに次のように問うことができよう。諸君は、世界を空間的、時間的にどこかで終わっている有限的なものと考え得るか。答えはおそらく、否、であろう。ーーそれとも諸君は、世界を時間空間において 無限と考え得るか。同じく否。ーーでは、生命の過程を説明し、その起源と終末とを明らかにし得るか。同じくいな、諸君は思惟そのものを説明しうるか。すべて否である。

 そんなら諸君は信仰について全然無関心であるか、あるいは信仰をまったく欠き得ないかでなければならぬ。

 ⭐️⭐️⭐️ 今日、多くのキリスト者がするように、決して普通の意味で、見捨てよ、というのではない。(テサロニケ人への第一の手紙三の一五、「彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。」宗教の自由が認められて以来、公然たる無神論者であって、なお高尚で思慮深く、努力して善を行っているひとたちは、あるいはマタイによる福音書(二一の二十八ー三十一)の寛大な言葉が当てはまるかもしれない。無神論はきわめて自然なものであり、ものを考える人ならだれでも、その生涯を通じてどんな時でも全くこれを脱却したとはいえないであろう。また最も敬虔な人たちでさえ、しばしば立派な無神論者である。すなわち、彼らはこの世に神がいまさぬかのように行動するのである。しかし幸福な無神論者というものはあり得ない。彼等は決して完全な精神の世界と、人生のあらゆる禍(わざわ)いの前に怯えぬ心とに到達する時がない。(イザヤ書四八の二三、五七の二〇)この差別は、誰でも身近な実例によって、自ら観察することができる。

 ⭐️⭐️⭐️⭐️ 通常、人は純粋に自分の主義どおり行動しているわけではない。もし主義通りに行動するならば実際の差異は、現在それがあるよりもずっと大きなものになるであろう。』

 

 

                  清秋記: