カール・ヒルティ、『幸福論』、「幸福」245頁より: | 真田清秋のブログ

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 『この幸福は一つの現実であり、一つの事実である。そのほかのあらゆる幸福の夢のように、想像が描いた単なる絵ではない。この幸福の夢からは、若いうちはともかく、少なくとも年をとれば、誰でも冷めないわけにはいかないのである。

 真の幸福はまた、われわれがたえず自分の力を出し、常に自分を励まし、強制しなければならな所にはない。むしろ、我々がひとたびこの人生観を信奉して、断固としてこれを実行し、他を捨てて顧みないなら、そのとき幸福は、おのずからわれわれに生ずるのである。すなわち、内的平和の流れ⭐️がそれであって、この流れは、年をとるにつれたますます強まり、われわれ自身の精神を成熟したのちは、最後になお他人に注ぐことができるのである。

 ⭐️ これを客観的に解釈して、またこう言うことができる。幸福とは、もはや外的運命に支配されることなく、完全にこれを克復した、この不断の平和でことである、と。ヨハネによる福音書一〇の一一、マタイによる福音書六の一九、ヘブル人への手紙四の九、ダンテ「神曲」煉獄篇、第二十七歌参照。これは分かりにくいといわれている「私の求めるのは幸福ではなく、裕福である」という言葉の意味である。この著述家は、人毎晩眠りにつくとき明朝また目覚めることを喜び得るということを、幸福の実践的な特徴としているが、いま実際そういうことになるのである。

 

 われわれの生活がある価値を持ったというには、是非ともこのもくひに到達することが必要である。また実際、われわれはこれに到達できるのである。それどころか、ひとたび決心して最初の段階をせいふくえすれば、ダンテの言葉⭐️とおり、登ることそのことに大きな喜びをすら見出すようになるのである。

 ⭐️    「神曲」煉獄篇、第四歌。

  「この山を登ろうとする者、

   その麓にて大きな困難に出会うであろう。

   それど登るにしたがって困難はげんじ、

   おんみの辛苦はいまようやく愉(たの)しみとなる。

   やがて登ることきわめてやすく、

   小舟で急流を下るがごとくなるであろう。」

 

 「浄化の山」の麓の登り口では、真の幸福のためには、求められるままにどんな代価でも払おう、というかたい決心と明白な宣言とが要求される。これなしには入ることが許されない⭐️。これより楽な道では、まだ誰も幸福に到達した人はいないのである。

 ⭐️ トマス・ア・ケンビスは、これを次のような言葉で言い表している、「一切を捨てよ、そうすれば一切を見出す。」こうした決心は、この問題を扱ったすべての書物で要求されている。その代価は、後になって初めて、しかも分割払いです少しずつ払い戻される。最初からすぐに、そも全額を払い戻しを受ける者は一人もない。

 

 ゲーテは他の道によって幸福を求める人たちの師であるが、その七十五年の労苦のあいだに、わずかに四週間安楽しか見出さなかった⭐️。誰でも生涯の終わりにその良心を問われて、このような貧弱な答えをしてはならない。

 ⭐️ ゲーテは彼の豊富な生活の間に、なるほどしばしば幸福に近づいたことはあった。先に「タッソー」から引いた彼の言葉や、その他の多くの彼の文章が、これを証明する。彼の長篇小説「ウィルヘルム・マイスター」はまさに幸福追求者の物語であるが、そも主人公はクレッテンベルグ嬢の日記が挿入されている箇所で一時は目標に近づいたが、やがてまたそれから遠ざかっている。

 

 しかしわれわれはこう言おう、われわれのよわいは七十年、あるいは健やかであっても八十年であるが、その生涯はたとえ辛苦や勤労であっても、なお尊いものであった。

     これが幸福なのである!』

 

                 清秋記: