『幸福論①』、「幸福」221頁より: | 真田清秋のブログ

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 『愛、そしてこれとつながる公私のいわゆる善行、これはまことに立派な言葉である。われわれはまた、使徒パウロがその手紙の中で、愛をすべての真実の生活の始めであり終わりであるといった、あの有名な言葉をよく理解する。しかし、彼はまた同時に、たとえ天使の舌(した)をもって語り、財産を残らず貧しい者に施し、そのうえ人類のために我が身を焼かせても、なお愛を持たぬことがある得ると考えたが、これはどんな詳しい説明にもまして、愛とはいかなるものであるかをよく示している。愛が元来、神性の一部であって、人間の心には生まれないものである⭐️。本当に愛を持つ人は、それは自分の所有でないことをはっきり知っているであろう。しかし、人間の心に宿った愛の微かな写影でさえも、人に幸福を与えはするが、しかしそれはただ時たまであり、また、常に他人の意志に拠(よ)っている愛の返しというきわめて不確実な前提のもとに立つのである。そして、わが心と、信頼のすべてを愛に置くものは、いつの日かはあのユダヤの予言者の恐ろしい言葉⭐️(エレミヤ書一七の五)を心の奥底に聞き、愛から憎しみに移ってゆく、ということが起こりがちである。われわれが今日多くの人の口から聞く憎悪の讃美は、毎日幾百万の人々が繰り返す愛の経験の結果にほかならないのである⭐️⭐️。

 ⭐️ 主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし、肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、呪われる。」(訳者注)

 ⭐️⭐️ この地上に生まれるすべての子供は、実に動物の仔(こ)でさえも、愛への本能をもち、愛に敏感である。しかし、彼等が成長するにつれて、すべて例外なく幻滅の悲しみを味わうのを見ることほど、悲惨なものはない。しかも、きわめて多くの人に、愛は再び帰って来ないのである。』

 

                清秋記: