カール・ヒルティ「幸福論①」140頁より: | 真田清秋のブログ

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 『この第三の段階こそ、真に実を結ぶ段階であり、一つの精神王国を作り上げる共同作業である。そしてこの王国は、あるいは広大な建築物に譬えられ、または厳格な軍務に比べられるのが常である。個人に満足を与えられる状態は、ただこれのみであって、そのほかには無いのである。

 人はただ自分のためにのみ生きて、たとえどんなに高尚な意味にせよ、ただ自分の修養にのみ心掛けている間は、まだいくぶん、以前の利己主義の苦々しさを思い出させるようなものを、あるいは「人間は努力する限り迷うものだ」というゲーテの言葉が意味するような心の中の薄暗がりを、どうしても感ずるものである。この自分自身のための努力は、いつかは休止しなければならぬ。「真理を求める永遠の努力は、真理の所有にまさる」という有名なレッシングの格言より以上に、不真実であり、そして何の慰めもないものはない。これはちょうど、永遠に凍えている方が、渇きを癒す泉を見つけ、万物を育成する太陽の光に浴するよりもありがたい、と主張するのと同じような不条理である。

 このような宗教的な、ないしは哲学的な不安とは全く反対の状態は、絶えず心が満足して、力に溢れる状態である。ただしこの力は、まず深い謙虚の心、そして自己満足をまったく捨て切った心の姿となって現れ、なおまた、どのような自然的苦難にも堪えうるものである。これが、およそ人間存在の到達しうる最高の段階である。もちろん、この幸福を誰にでも理解させることは、ほとんど不可能である。絶えず自分のことばかりを考えなくてもよい(ローテが言うように「私事には心を用いない」)ようになって、必ずしも目には見えなくても何らかの効果はきっとあるのだという確信を抱いて、落ち着いて自分の仕事にいそしむことのできるところに、この幸福はあるのである。この道を捨てずに歩き続ける勇気は、この第三段階においては、もはや以前のように、一種の発熱状態にたとえられるような、そしてまた二、三の場合には実際に発熱を作った、あの昂奮状態となっては現れない⭐️⭐️⭐️。むしろ、外面的にはまったく冷静な形を示すのである。これはちょうど、不動の中心点(わが道と運命に対する揺るがむ信頼)にもたとえられ得るもので、あらゆる出来事、ことに他人の批評、などによって微塵も動揺することがないのである⭐️⭐️⭐️⭐️。

 

 ⭐️ これを証明するのは、ヨハネによる福音書十の十一、十六の三十三、マタイによる福音書十一の二十九である。

 たえず自分の「信仰を堅める」ことばかりを思って、宗教的な儀式や会合に臨む暇もないといっている新教の怠惰な聖者たちは、いつも祈ってばかりいる旧教の僧侶たちと同じく、深い迷いに囚われている。だから、彼等は、「信仰のない人」とまったく同じように、安心を欠いているのである。

 ⭐️⭐️ この状態の頂点を示しているのは、ルカによる福音書5の17、十の十七・十九、十一の三十六、ヨハネによる福音書七の三十八、八の三十一・三十二、五十・五十一である。この状態が自身の完全無欠の状態ではなく、むしろ他の力のあらわれであることは、とりわけヨハネにより福音書五の十九・二〇および三〇、十四の十二、コリント人への第二の手紙十三の九を見ても明らかである。 

  ⭐️⭐️⭐️ このような法悦は(一般にあらゆる宗教的法悦と同じく)教会の一部が認めているように、特別に進歩した内的状態の印ではないのである。最もすぐれた人達にもこれは現れないことであり、少なくとも晩年に近づくにつれて、これは次第に消えていくものである。(例えばコリント人への第二の手紙十二の二、「十四年前に云々」を見よ。)言い換えれば、これはせいぜい通過点にすぎない。カトリック教会の、法悦を経験した聖者の一人である聖テレザは、自らよくこのことを知っていた。たとえば、彼女の教父アルカンタラの聖ペトルスに関する叙述を見てもそれは分かるのである。(ハーン侯爵夫人のドイツ訳による彼女の「自伝」270頁を参照せよ。)

 ⭐️⭐️⭐️⭐️ このような状態について述べたある女流著述家(修道尼のジャンヌマリー、1581年生まれ)はこう言っている。「自分自身とすべての人間に対する信頼を投げ捨ててしまえば、地上で得られる限りの、最大の魂の幸福を持つことができる(使徒パウロのいわゆる)古き人を脱ぎ捨てると言うのは、つまりこうである。ー・・・・人は通常、俗世を捨てればただそうなれると思っている。しかし、最大の敵は、実に我々自身の内にいるのである。」これがまた疑いもなく、クリンガーの思想の核心だったのである。

 人間への信頼なしに済ませることができるためには、しかし、神の正義に対する揺るがぬ信頼が必要である。これは、このような著述家がみな一様に要求するところであり、あるいはむしろ前提とするところであって、これなしには、このような道は全然行くことができないからである。また別のイスラエルの預言者は、このことを次のように言っている、「あなた方は言葉をもって主を煩わした。しかしあなた方は言う、『我々はどんなふうに、彼を煩わしたか』。それはあなた方が『すべて悪を行う者は主の目によく見え、かつ彼に喜ばれる』と言い、また『裁きを行なう神はどこにあるか』と言うからである。」(マラキ書二の一七)言葉をかえていえば、神の正義を疑い一体そのようなものが存在するかどうかを疑うことは、悪そのものにひとしい神の冒涜であり、多くはただ悪の結果なのである。

 明らかに内的生活をもっており、そして時代や宗教や社会的領域を全くひとしくする、多くのすぐれた人たちの生活経過を要約すれば、次のように言うことができるであろう。すなわち、生活の初めには人はまず、何が利口であるかを問い、ここに満足を求める。しかし、この満足は、やがて傲慢に陥る危険を伴う。第三の者は早くこのことに気づいて、より高い指導者に従って行動しようとする。しかし、この道は非常に狭く、最初は「謙遜の谷」を通らなければならない。』

 

                清秋記: