カール・ヒルティ、「幸福論①」136頁: | 真田清秋のブログ

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 『第四節について。ーーこの最後の節は、主としてクリンガーの人生哲学の概要を含んでいる。ひとの人生経験は、細かくみれば各人それぞれに違って見えるが、しかも大体においては、皆ほとんど一緒である。その一部の者は、身分の上下を問わず、意識的に、あるいは無意識的に、動物的生存を続けるだけで、その短い一生の間、生理適自然的の指し示す道をたどって、ほかに何の使命をも自覚しないのである。ところが、他の一部の者は、この心を満たすもののない人生観からの逃げ道を求める、この何らかのよりよいものを求める人々の人生行程を、ダンテは「神曲」の第一歌で最も美しく描いているが、そのような発展は、偉大な人々の内的生活を物語るに当たって常によい題目となるのである⭐️⭐️。世俗的生活に対する不満、より良いものへの憧れがその出発点となる。そこで理性それ自身が迷路からの出口を求め、ついには「奔命に疲れて」、平和に達するためには、どんな代償を払っても世俗の道から逃れようと決心するようになる。この決心がついた時、人は自ら救われたと思い、正道に到達したことに伴う内面的な快さを覚えるのである。彼はたしかに、本当の意味でも、正道に辿り着いたのである。なぜなら、彼がこれまで自分の我意でそれに逆らってきた新しい精神的な力に対して、今は素直の心を開いて、その影響を受け入れるようになったからである⭐️⭐️⭐️。しかし今、実際には第二の段階として、使徒パウロのいわゆる古き人と新しき人(エペソ人への手紙四の二十二・二十四)との間に、長い争覇戦が始まることになる。すでに古き人と新しき人の両者が(人の内部に)現存するのだから、この新しき人が中途半端に終わることにないように、充分これを育て上げる必要がある。ところが、より良きものを求めて努力する人たちも、たいていは生涯の間、なおこの第二の段階にとどまっている。これがすなわち、人生の正道を行おうと志ながらも、他人に感化を及ぼすことが不十分であり、一般に人間関係を向上させることにあまり役立たない理由であるーーもっとも、人間関係の向上など普通あまり重要視されないからではあるが、精神生活の第三の段階が広く実現された時に初めて、すべての人間関係が正しい秩序を見出すであろう。

 ⭐️ この観点に立てば、(無条件にではないにしても)ある点まで動物界を支配している「生存競争」というものが、ある意味をもってくる。しかし我々は、抑圧者となるか、抑圧される者となるかよりほかに余地のない世界には住みたくない。むしろ、そういう惨めな、人間にふさわしくない見解から、人間を救い出すことが、差し当たり重要な問題だと思う。このような暗い考え方とは別な道で生きることのできる見込みが、たとえ遠い将来にもせよ少しでもあり得るならば、この運命に服従する前に。その希望の道を探し出さねければならない。事実上、人類が絶えずこの運命から逃れ出ようとしなかったならば、おおよそ国家秩序などは、とうの昔に成立しなくなっているはずである。なぜなら、この見方をすれば、国家秩序というものは結局弱者に対する権力の支配とその組織とにほかならないからである。

 そればかりではなく、その厭世思想の一番悪いところは、それがただ不満足な、不幸な説であるばかりでなく、しばしか空虚な自己反省遊戯と結びついている点である。すなわち、道徳的無力を何か意味あることと思い、おそらく自分自身をも含めて一切のものを悪だと感ずることこそ、真の精神的高尚なのだと説いて、他人にも納得させようとすることである。現代青年の教育はまさにこの点から、つまり厭世思想の克服から、始められねばならぬと私は信ずる。そのためには、理性と経験とに基づくある倫理的世界秩序の理念から出発することが必要である。その理念に比べれば唯物論は、少なくとも同様に証明することのできない、その上、決して何びとをも満足させることのできない学説である。世界は果して混沌であり、偶然から成り立つものであり、その窮極原因を知ることのできない、いわゆる自然法則なるものの産物であるのか、あるいはまた、ある倫理的意志によって支配された一つの秩序なのか、そのいずれであっても、我々はそれを知ることができない。が、しかし、後者の考え方の方が、そのような倫理的秩序に順応したいと思う人にとっては、初めから一層真実らしく思われる。(理解の困難はおもに、この順応したいと思う点にかかっているのである。)そして、こうした順応が、個人にとって幸福と満足とを意味し、その反対はしか、不幸と内的分裂とをいみすることが、すぐに分かるであろう。このような世界秩序が事実上存在するということは、すでに述べてように、哲学的には証明され得ない。その証明と言われるものは、すべて不十分である。むしろその秩序の働きを自ら経験することによってのみ、それは知ることができる。ところが、高い教養を持つ人々さえ、我々の思想と行為の全体に関わりを持つこの重大な事柄に関して疑いを抱いたまま生涯を送って、疑いは高い教養につき物だというように思い込んでいるのは、誠に嘆かわしいことである。(列王記上18の21、ヨハネによる福音者十五の二十二ー二十四)たしょ、言葉は違っているが、ゲーテはこのことを、次のようなよく引用される文章で言い表している、「思索する人最も美しいこうふくは、探求し得るべきことを探求し、探求し得べからざるものを静かに捨て置くこと」と読んでいる。

 ⭐️⭐️⭐️ それだから、旧約聖書も新約聖書も、人間の向かっては、ただ一つの「回心」ーーただ一つの意志活動ーーを要求するだけであって、決して「改善」を要求してはいないのである。この意見によれば、人間は元来、自分を改善することも、改善されることもできないものであって、ただわずかに、自分自身を脱却して、より良い性質を授かり得るだけである。ここにキリスト教の全秘密がある。これは公開されているのであるが、それでもなお、多くの人々にとっては隠されてあるのだ。』

 

                 清秋記: