スイスの哲人、カール・ヒルティ著
『われわれを侮辱するすべての者を赦してやれとの教えは、疑いもなく、われらの主の言葉と行いによって保障されたが、われわれ自らの経験によってもまたその正しさが確かめられる。つまり、執念深い憎しみは内的生活を蝕み、憎しみの相手よりも憎しみをいだいて当人の心を害うものである。
けれども、時には、即座にすっかり赦すことが困難なこともある。しかし、「赦すことはできるが、忘れることはできない」とか、「願わくば、神があなたをお赦し下さるように」というような言い草で、中途半端な偽善的な赦し方をするのは、心の気高い人に相応しくないし、そんなことを穏やかに受け入れたまわぬ神を冒瀆するものである。
こういう場合は、少なくとも、復讐をやめて、神におまかせする方がずっとよい。そうすれば、それだけの理由があるかぎり、神は間違いなく、ちょうど適当な時期にそれを成し遂げてくださる。人間にはこの方が辛抱しやすい。そして、傷つけられた感情も。報復の計画など煽られなければ、時がたつにつれて、また神の恵みによって、しだいに宥められるものである。
ヘブル人への手紙一〇の三〇・三一、申命記三二の三五、詩篇三七および七三、イザヤ書四六の一一、四九の二三、五五の一七、六〇の一四、エレミヤ書一一の二〇。
たとえ心のなかだけでも、決して人と諍いをしてはならない。これは往々、実際の争いよりもかえって心を不愉快にし、いろいろな内的不安の原因となる。ユダヤの格言にある通り、とりわけ、「自分を愛する者を怒るのは、頭上に狂気の種子を撒くことである。」
裁(さば) く な
悪い人たちを捨てておけ、争いはやめよ。
おまえに任せられないことをすてておけ。
神がだれの改心を望んでいられるのか、
その救いの御心はおまえにはわからない。
神が悪人らを助けようとされなければ
それでおまえには十分せはないか。
彼らは恵みに浴することにない
重い鎖をひきずっているではないか。
幸福のあかりの中にあっても
かれらはつねに不幸の不安におびえ、
その頭の上にはたえず
裁きの剣がかかっているのが見える。
悪人らを正しい裁き主にゆだねて
惑う(まだ)うことなくおまえの道を行くがよい。
かみは、日常平凡な思想をいだく
当世の詩人のたぐいではない。』
清秋記: