『眠られぬ夜のために①』一月七日: | 真田清秋のブログ

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 スイスの哲人、カール・ヒルティ著

『われわれを侮辱するすべての者を赦してやれとの教えは、疑いもなく、われらの主の言葉と行いによって保障されたが、われわれ自らの経験によってもまたその正しさが確かめられる。つまり、執念深い憎しみは内的生活を蝕み、憎しみの相手よりも憎しみをいだいて当人の心を害うものである。

 けれども、時には、即座にすっかり赦すことが困難なこともある。しかし、「赦すことはできるが、忘れることはできない」とか、「願わくば、神があなたをお赦し下さるように」というような言い草で、中途半端な偽善的な赦し方をするのは、心の気高い人に相応しくないし、そんなことを穏やかに受け入れたまわぬ神を冒瀆するものである。

 こういう場合は、少なくとも、復讐をやめて、神におまかせする方がずっとよい。そうすれば、それだけの理由があるかぎり、神は間違いなく、ちょうど適当な時期にそれを成し遂げてくださる。人間にはこの方が辛抱しやすい。そして、傷つけられた感情も。報復の計画など煽られなければ、時がたつにつれて、また神の恵みによって、しだいに宥められるものである。

 ヘブル人への手紙一〇の三〇・三一、申命記三二の三五、詩篇三七および七三、イザヤ書四六の一一、四九の二三、五五の一七、六〇の一四、エレミヤ書一一の二〇。

 

 たとえ心のなかだけでも、決して人と諍いをしてはならない。これは往々、実際の争いよりもかえって心を不愉快にし、いろいろな内的不安の原因となる。ユダヤの格言にある通り、とりわけ、「自分を愛する者を怒るのは、頭上に狂気の種子を撒くことである。」

 

   裁(さば) く な

 悪い人たちを捨てておけ、争いはやめよ。

 おまえに任せられないことをすてておけ。

 神がだれの改心を望んでいられるのか、

 その救いの御心はおまえにはわからない。

 

 神が悪人らを助けようとされなければ

 それでおまえには十分せはないか。

 彼らは恵みに浴することにない

 重い鎖をひきずっているではないか。

 

 幸福のあかりの中にあっても

 かれらはつねに不幸の不安におびえ、

 その頭の上にはたえず

 裁きの剣がかかっているのが見える。

 

 悪人らを正しい裁き主にゆだねて

 惑う(まだ)うことなくおまえの道を行くがよい。

 かみは、日常平凡な思想をいだく

 当世の詩人のたぐいではない。』

 

 

             清秋記: