『眠られぬ夜のために①』一月六日: | 真田清秋のブログ

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  スイスの哲人、カール・ヒルティ著

『キリスト教が真に命ずるところに従って生きることは、あまりにも困難であり、むしろ全く不可能であるという見解が、かなり一般に広まっている。もしそれが真実ならば、教会の目的、または政治上の目的のためにただ「形式的」に、そんな宗教を守り続けるよりも、むしろ捨ててしまった方がよいであろう。もちろん、もしもキリスト自身がこの地上に再臨されることがあれば、おそらく最初の時と同じように、「全エルサレム」がひどく震駭(しんがい)するであろう(マタイによる福音書二の三、七の二八)。けれども、上のような見解が、キリスト教を本当に生涯自分のものにした人たちによってかつて抱かれ、また公言されたとは、信じられない。そういう人の場合は、信仰生活の美しさと偉大さが、それにともなう困難にはるかに立ちまさるからである。この生活は、初めはいくぶん押し切って試みることも必要であるが、進むにつれてそうでなくなる。むしろ、それは狭くともごく平坦な道であって、そこには多くの憩いの場や開かれた門があるものだ。

 今日、「山上の説教」と呼ばれて、その概要だけが伝えられている聖句を、一度注意深く読んでみなさい。そして、あなたもその教えの驚嘆するか、それとも、それら全てをいわゆる「理想的」な命令(すなわち理想的な意味にに受け取り理解するが、実行するには及ばむもの)と考えるかを検討しなさい。あなたが内的に進歩するかどうかは、この検討とその答え次第である。これら全ての教えが守れるようにと、少なくとも強く願わないなら、キリスト教はあなたにとって全く無縁であり、むしろなにか教会制度なり哲学なりで満足するほかはない。

 もしも神が実在せず、ただダーウィンの意味での自然史的世界秩序と、人間同士の単なる「生存競争」と、社会的にも「実利政治」としかこの世に無いならば、山上の説教に従って生活の規則を立てたり、それを自分ひとりで守ろうとするのは、たしかに愚の骨頂であろう。しかし、神が実在して、その命令に忠実に従うときは神の祝福が与えられ、さもなけれ与えられないということであれば、事情は違ってくる。幸い、これは誰もが試してみることができる。頭から信じてかかる必要はない。いずれ近いうちに、すでに唯物主義に嫌気がさした多くの人々によって、それは試されるであろう。

 ヨハネによる福音書七の一六・17・四六、八の一二・四七。

 

 あなたが福音書のこのような章句を囚われずに読むならば、キリスト教は、精神的にこの教えを理解する力がなかった数世紀の間に積み込まれた、皮相な教会万能主義のかさばった積荷から解放されて、それぞれの個人によって全く新しく始められねばならぬという考えを持つであろう。ある人たちが、市民権の剥奪(はくだつ)をもって強制されない今では、キリスト教への服従をあからさまに拒むであろうが、しかし他の人々はキリスト教の持つ内的卓越性のゆえに、ますます深い信頼をもって堅くこれに心を捧げるであろうーーこのような時代がいまや近づいている。』

 

 

           清秋記: