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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、フランスを代表する哲学者にメルロー・ポンティという人がいます。
彼は、「身体論」という説を唱えているのですが、ある哲学者は、その説を次のように説明しています。
ポンティの説によれば、私たちの身体は「意識とはまったく独立に」自分が置かれている状況を判断する能力を有していると主張している、と言います。
例えば、ストーブの上で湯気を出しているヤカンに手を触れない赤ちゃんは、かつてそれを触って火傷したからという理由だけで触れない「のではない」とポンティは言います。
赤ちゃんの身体はヤカンが発する危険信号を察知したのだ、と主張するのです。
そこには、私たちがなぜか生まれながらにして持っている「自分を対象化する身体能力=自分の身体を客観的に捉える能力」が前提されるはずだ、というわけです。
すなわち、自分の置かれている状況を「主=メイン」と見た場合、身体は「客=サブ」となります。
反対に、自分が置かれている状況を「客=サブ」を見た場合、自分の身体は「主=メイン」になります。
何を主と捉えるのか、あるいは、一度主と捉えたものを瞬時に客と捉え直せるか――そういった能力の高低や有無によって、私たちの人生観や他者の見方は変わってくる、ポンティの身体論とは、ざっくり言えばこういうものだ、というわけです。
例えば、両親とも東大卒だという姉妹がいた、とします。
両親は、この姉妹に、小さい頃から
「東大に行け」
と言い続けていたとします。
これに対して、姉のほうは、親になにも言えず、我慢に我慢を重ね、親の言いつけどおり勉強し、一浪のすえ東大に入りました。
妹のほうはというと、名門私立中学の合格発表の日、両親に向かって
「ね? 私、合格したでしょ? これでいいでしょ? 満足したでしょ? というわけで、私は地元の公立中学に通います」
と言い放ちました。
その後も、姉は、両親の言いなりになり、生きづらさを抱えたまま、親と表面上仲のいいふりを続けることでしょう。
一方、妹は、その後も一生自由に生きることでしょう。
この違いがどこにあるかと言えば、ポンティの説に従えば、その身体性にある、というわけです。
姉は、親を前にした時、身体が硬くなってしまうという生まれもった身体性であり、それ自体はどうにもならないものだというわけです。
それは、身長の高低や鼻の高低、痩せやすい体質・痩せづらい体質などと同様、どうにもならないものなのだというのです。
そして、妹のほうは、両親の前でも身体が硬くならない身体性であり、自分の身体を客観的に見ることができるために、両親から自由に生きることができる、というわけです。
つまり、生きづらさの理由は、親のせいではない、というのです。
しかし、これでは、人は、一生変われないことになってしまいます。
アドラーは、
「人は死ぬその瞬間にまで変わることができる」
と述べています。
それは、人の性格は、持って生まれたものではなく、後から身についたものだからです。
つまり、性格とは、幼い頃に決めた自分の人生の目標を達成するために、後から身につけた手段に過ぎないわけです。
先の例で言えば、親の前で身体が硬くなるかならないかは、その人の性格によるものであって、生まれついた身体性のものではない、ということです。
従って、自分の人生の目標を変えることができさえすれば、その人の性格も変わっていくのです。
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