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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、前回まで、『人の正義と劣等感』と題して、
正義に関する見解を記事にしてきました。
そんな中、思い出されるのは、
今までに多くの犠牲者を生んだ数々の通り魔殺人事件です。
多くの場合、犯人は、
何らかの正義のために
このような凶行に及んだわけではありません。
また、正義を口にしていたわけでもありません。
犯人が口にしていたのは、大抵の場合、
「人を殺せば死刑になると思った」
という、極めて身勝手な言い訳です。
そもそも死刑とは、
殺人を犯した者に科される刑罰です。
そして、刑罰とは、
人々の社会的な権利を保障するために制定されたものです。
つまり、本来は社会的な正義であるべきはずものなのです。
それが、
一人の人間の理不尽で極めて自分勝手な目的のために利用され、
利己的で到底許すことなどできない言い訳として使われているのです。
ここに、
私たち人間が意味づけの世界に生きている、
という本質が垣間見えてきます。
つまり、
見ている世界と見えている世界は違うということです。
私たちが、たとえ同じ言葉を口にしていても、
その言葉によって共有する世界に限界があるのは、
その人間がどのような意味づけの世界で生きているかによって、
その内容が大きく変わってくるからです。
正義であるべきはずのものが、
社会的な権利を守るために使われることもあれば、
まったく理不尽で身勝手な言い訳のために使われることもある。
私たちが正義という言葉を口にするとき、
とかく「正義とは何か?」という、
その内容にばかり目を奪われがちですが、
前回の記事にも書いた通り、
正義というものは、
必ずしも善であり、必ずしも正しいこととは限りません。
それは、正義が、
社会的な権利を保障するための適切な目的にも、
ただ己の利益を追求するためだけの不適切な目的にも利用されるからです。
そして、その目的は、
その人間の意味づけによって変わってきます。
私たち人間は、常に意味づけの世界に生きています。
そして、自分の描く世界にどのような意味づけをしているかは、
その人間の行動の目的の中に、その姿を現しています。
それゆえ、正義を語る上で本当に重要なことは、
常に、その目的に気づいていることなのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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