ご訪問いただき、ありがとうございます。
心理コンサルタントの白瀧です。
さて、多くの人たちが、
「生きる意味とは何か」
という問いを自らに課し、答えが見つからずに悩んだことがあるのではないでしょうか。
否、今も悩んでいる方もいらっしゃるかもしれません。
このような人生における「生きる意味」について、心理学者のヴィクトール・エミール・フランクルは、以下のような示唆のある文章を残してくれています。
『私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。』
そして、この文章は、次のように続いています。
『私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。
生きること自体、問われていることにほかなりません。
私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。
そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。』
彼の言うように、人が、そのときそのときに人生が出す問いに答を出すためには、そのときそのときにできることを自分なりに精一杯する必要があります。
そして、人は常に、自分の価値を高めるように行動しています。
それゆえ、そのときそのときの状況に対して、常に最善をつくそうと努力をし、自らが自らの価値を高めるように行動している人は、決して、生きる意味を問おうとはしません。
そのときそのときの状況に対して、最善をつくす努力をせずに、自らが自らの価値を高めるように行動していない人だけが、
「こんなことをして何の意味があるのか」、
「こんなことには何の価値もない」、
「自分の人生の意味は何なのか」
と叫んでは、生きる意味を問おうとするのです。
もちろん、フランクルの言う通り、人生に生きる意味を問うても、答えは見つからないでしょう。
なぜなら、人が生きるためにはなぜ意味が必要なのか、その理由を私たち自身理解していないからです。
その理由を理解していなければ、いくら考えても、何が答なのかわかるはずがありません。
反対に、人がなぜ生きる意味を求めるのか、その理由を理解したならば、もはや意味を問う必要はなくなるでしょう。
なぜなら、生きる意味を求める人にとって最も重要なことは、その答えを見つけることではなく意味を問う行動そのものなのだ、という矛盾に気づくことができるからです。
それは、言ってみれば、生きる意味を問うことによって、人生が絶えずそのときそのときに出す問いから逃れようとしている、という欺瞞なのです。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
心理学教育の必要性と『気づきの思考法』を広める活動をしています。
↓ご協力のほど、よろしくお願いします。
自分を変えたい、人生の迷路から抜け出したい、
そう思う方は、
『気づきの思考法テキスト』を読んでください。
→詳しくはコチラ