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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、私たちは、他人の目を気にし、周囲の人たちの顔色を窺いながら、無理をして「いい人」を演じて生きていると、とても不自由な生き方を強いられているように感じます。
そして、そんな自分は、「本当の自分ではなく、非常にダメな人間なのだ」と思い込み、自分自身を責めては大いに苦しみます。
しかし、そのような生き方に不自由を感じるのは、何も他人の目を気にし、無理をして「いい人」を演じているからではありません。
また、そんな自分をダメだと責めて苦しんでいるからでもありません。
そのような生き方に不自由を感じるのは、自分の決断の責任を放棄しているからに他ならないからです。
私たちの人生は、さまざまな決断の連続です。
私たちは常に、自らの行動を自らが決断しながら生きています。
それゆえ、無理をして「いい人」を演じているのも、あくまでも自らが決断したことに変わりはないのです。
しかし、私たちは、そのような自分の負になる決断をしたときには、その決断の責任を、何かと周囲のせいに帰せようとします。
そうして、自らの決断の責任を放棄しようとするから不自由になるのです。
もし、その決断の責任を自ら引き受けることができないのならば、他の選択肢を決断することもできるのです。
「いい人」を演じない決断をすることも可能なのです。
「嫌われる勇気」を持てば自由に生きられるというのは、何も、他人に嫌われれば自由に生きられるということではありません。
もし自らが選択した行動によって、結果的に他人に嫌われたとしても、その結果の責任を引き受けることができれば、人は自由に生きられるということなのです。
人が自由であるというのは、他人の目を気にしないということではありません。
人が自由であるというのは、自らの決断を自らの意思によって行うことができるということなのです。
そして、その決断に責任を持つことができれば、人は常に自由に生きることができるのです。
それゆえ、無理をして「いい人」を演じることには不自由を感じたとしても、自らの意思によって他人に貢献する行動を決断したときには、大いに自由を感じられるものです。
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