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心理コンサルタントの白瀧です。
さて、文芸評論家の小林秀雄さんの『考えるヒント2』の中に、こんな文章があります。
常識という言葉は、日常、ずい分でたらめに使われている。
困った男だ、まるで常識がない、と言うかと思うと、みんな常識ではないか、面白くもない、と言う、これでは何のことやらわからない。
まあ、私にしたって、これで、ずい分常識は尊重している積もりでいるが、私の言行を眺めている人達は、私をあんまり常識の備わった男とは認めてくれないようです。
どうも常識という言葉は、誰もわかり切った言葉のように使ってはいるが、その意味合いは、余程面倒なものだ、という事になるようです。
確かに、私たちは、小林秀雄さんが指摘するように、常識という言葉を相反する表現の中で使用することが多いものです。
一方では、常識があることが良しとされ、他方では、常識があることがダメだという。
そして、それが、大抵の場合、一人の人間の口から発せられることがよくあるものです。
本当に、何のことやらわからない、大いなる矛盾のように感じます。
しかし、この二つの、一見矛盾する使われ方の中にも、共通していることがあります。
それは、常に誰かを非難する表現である、ということです。
一方では、こう言い、他方では違うことを言う。
私たちは、往々にして、他者を非難する場合に矛盾することを平気で言っているものです。
「理由を言え」と言いながら、言えば言ったで「言い訳するな」と言ったり、
「依怙贔屓するな」と言いながら、同じような対応をされると「融通が利かない」と言ってみたり。
同じ意味合いの言葉を、状況に合わせて自分の都合のいいように使い分けているものです。
それでいて、自分自身では自分自身の矛盾に気づいてはいない。
なんとも都合よくできているものです。
こんなことを書いていると、私自身も、このブログの中で、日によっては矛盾することを大いに書いているのだろうと、思わず冷や汗が出てきます。
意識して気をつけたいところです。
他人の矛盾には気がついても、己の矛盾には気がつかない。
それが、私たち人間の、あるいは常識なのかもしれません。
だからこそ、意識して気がつく必要があるのだと思うのです。
【参考文献】
新装版 考えるヒント (2) (文春文庫)
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