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心理コンサルタントのしらたきです。
さて、最近、
お節介な人への対処の仕方について記事を書いていますが、
記事を書いていて、
ふと、学生の頃の思い出が頭に蘇ってきました。
それは、この、お節介な行動に関するもので、
少し余談になりますが、
今日は、高校時代に決まりの悪い思いをした、
その体験について書きたいと思います。
あれは、確か高校の英語の授業のときだったと思います。
英語の先生が、私の席の隣りの友人に、
教科書に書かれていた話の内容に関して、
英語で質問してきたときのことです。
友人は、しぶしぶ椅子から立ち上がると、
教科書を見つめたまましばらく黙っていました。
私はそのとき、答えがわかったので、
「彼は、答えがわからずに困っているのだろう」
と思い、
彼に教科書の一部を指して、
ここが答えだということを教えようとしました。
しかし、彼は、私の行動を無視していますので、
気がつかないのかと思い、何度か彼に知らせようとしました。
すると、突然、彼は語気を強め、
「お前が質問されたんじゃないだろう!」
と言ってきました。
私は、そのとき、とても決まりの悪い思いをしたのを覚えています。
今から思えば、私の行動が彼の能力を否定していたことがわかります。
私の行動は、
「あなたは、答えがわからないみたいですね」
という上から目線の態度だったのです。
そして、
「親切心から教えてあげるよ」
という優越感に浸ろうとする行動だったのです。
彼がそのことを不愉快に思い、腹を立てたのも、
今ならよく理解できます。
私は、答えに窮する彼の様子を見て、
共感ではなく、同情という上から目線の態度から、
お節介を焼いて優越感に浸ろうとしていたに過ぎないのです。
それを親切だと勘違いしていたわけです。
本当の親切とは、
相手の能力を信じ、
その人が、自分の問題を自分自身で解決するのを見守ることであり、
その中で、もし協力を求められるようなことがあれば、
そのときには、
その人が自分で問題を解決できるようにお手伝いすることなのです。
なぜなら、
人の人生は、その人自身しか生きられないのであり、
何人と言えども、
他人の人生を一生手助けすることなどできないからです。
この同情と優越感の関係については、
最新の脳の研究から明らかになっていることがありますが、
それについては、また次回に書きたいと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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