日々日常を過ごしていると、、思考の想定をまるっきりひっくり返すような出来事が不意に起きたりするものです、、
右に投げたボールが、まさか左から飛んでくるような!
あるいは、そーーーっと投げたはずのボールが、半沢さんもびっくりの何十倍返しやねん!?ってほどの力で投げ返されてきたり!!
さて、こうしたときは思い出しておきたい、白隠禅師の例の逸話、、
自身の自我を揺るがしかねない出来事に対して、、
白隠禅師は、、ただの一言、「ほう、そうか」 と言って、事態のすべてを受け入れてしまいました、、
また別の日には、、そんな都合の良い話がと、普通であれば非難や怒りが溢れ出そうになる場合であっても、彼は、ただこう言うのです、、「ほう、そうか」
禅についてかつてOSHOが述べたこんな話を参照しつつ、、
禅の人にとって、問題などというものは本当に何一つない。
なぜならば、彼は物事を見てはそれらの自然さを受け入れてしまうからだ。
「水は緑」 ----- どこに問題がある?
「山は藍」 ----- どこに問題がある?
花は花、とげはとげ ----- 物事はそのありのままだ。どこに問題がある?
イエスもノーも言わずにしゃんとしたままでいられるだろうか?
イエスやノーを言いたい誘惑に抵抗できるだろうか?
何の審判もせずに、ただしゃんと目を見張り、
それがそこにあるということに注目するだけでいられるだろうか?
それならば、あなたは鍵を手に入れている。それが禅の鍵だ。それはマスターキーだ。
それはありとあらゆる錠前を開けることができる。
驚くべきことに、、彼らは、およそ不自然さすらも 「自然なもの」、「あるがままのもの」 としてハラの中で消化 (溶解) させてしまうことでしょう、、
日常においてふと、、自我が (物事への) 抵抗と共にのたうち、防衛性故の活動を表出しようとしている場面において、そのことに気づいていると、、自然とその様相を見守り、くつろがせつつ、解放する術が見出されていくものです、、
もちろん、これは、その都度現れる怒りや悲嘆、狼狽といった、一般的に 「負」 とされるエネルギーをなんとか我慢して超越しなければならないという話ではまったくありませんし、、
時として、そうした衝動がある意味で、「自然な現れ」 として形を成すこともあるでしょうが、それはそれで 「負」 ではありませんし、問題でもありません、
ただ、自我が水面下で起こす、収縮めいた感覚が気づき (アウェアネス) と共に明るみに晒されると、第三の眼とも言える何かがそれを見逃すことはありません、、
※こちらの桜の見ごろは今週いっぱいといったところですね、、
今日も読んで下さり、ありがとうございます!