心が何かの信念を 「信じて」 窮屈に縮こまり、
あれが正しい、これが正しい、あの人はこうであるべきだ、人生はこうでなければならない、、といった、
あれこれの葛藤の中で、、行き場を探ろうと混乱のせめぎ合いが起きているときは、、
そうした思考の様子に気づき (アウェアネス) を照らしながら、、
そうした思考のすべてを、「信じないで」 居られかどうか試してみると良いでしょう、、
私たちの (自我) 意識は、ある意味で、素直過ぎるがあまり、、笑
数限りない観念を 「防衛」 のために持ち運び所有するという性質があります、、
こうした観念が、実用上の範囲で役に立つこともあるのは確かでありながらも、、
そうした性質が往々にして、私たちの混乱と迷い、苦しみの根源を見事に生み出し得るということもまた注目すべきところなのです、、
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というわけで、ここぞとばかりに、今年最初の記事で参照した、、
溝口あゆかさんのフェイスブックの投稿をまた拝借したいと思います、、
2018年の誓い♪
すべてを疑い、何も信じない!
私は~~~
あの人は~~~
社会は~~~
世界は~~~
という頭のおしゃべりはもちろん、
真実とは~~~
精神性とは~~~
生きる目的とは~~~
愛とは~~~
という正しそうな思いもぜんぶ、
そして、
私は女だ~
私は人間だ~
私は存在している~
という事実にしか思えないものも、
ぜんぶ信じなかったら?
何一つ信じない、すべてがあいまいで未知になり、
何一つ頼れるものがなくなって、
自分がいるのかも
何もかも分からない
徹底的にまったく分からなくなって、
でもどうしても最後に唯一疑えないもの、
確かに信じられるものが一つ残るはず。
それと出会って
それで生きてみたい
皆様、本年も引き続きよろしくお願いいたします♪
というわけで、心が混乱と窮屈さの中で苦しい時は、、
ぜひとも、、「疑い」 を友としてください、、
この態度は言い替えれば、、「分からないこと」 だけを信じていることであり、、
このとき私たちの意識は、、「せめぎ合い」 による分離的な軋轢を手放し、、
境界なきリアリティに開かれているのです、、この気づきの広がりに癒しがあり、救いがあり、悟りがあるのです、、
※ちなみに、昨日のじゃがいも収穫祭は、、
200円ほどの種イモから100個ほどのじゃがいもが取れたってミラクルです、、
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ