ストレスや恐れ、できれば避けたいとする状況、、
あるいは、その対象となる相手が目の前にいるような場合に際して、、
多くの場合私たちは、、そうした、「対象」 を遠ざけ、その場からできるだけ早く離れたいとした、
無意識的な反射性と多かれ少なかれ日々同居していると言って良いでしょう、、
こうした反応こそが、私たちのプログラム上の防衛性であるところの、
自我性、「恐れ」 であるというのが日々お伝えしているところです、、
この反応自体は、全くもって 「悪い」 というわけではなく、
むしろ、自然であり、正常な生の動きであると一応は見ることができるのですが、、
この 「対象」 の認識に相まって、そこから 「逃げる」 というエネルギーによって、
そこから 「逃げる私」 と、「逃げべき対象」 といったところの、分離性のエネルギー (対象化) がさらに強固になるというのも実際のところで、
それに伴い、エネルギーのしこり、流れの滞りといったところの、「固定化」 の様相にある面、つかまってしまうといったこともまま見られる話です、、
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ですから、「逃げたい」、「離れたい」、「後回しにしたい」 などといった、
防衛の反応が沸き起こってきたとき、それに 「気づき」、それと共にあること、そこから離れないで居ることで、、
そうした分離性のエネルギーの実体化を、「いなす」 ことができ、
分離から生じる軋轢や不調和といった動きにおいてもそれらを解放することができると言って良いでしょう、、
ある意味では、合気道的なスタンスとでも言いましょうか、、
実際、合気道も、元をただせば 「禅」 に行き着くわけですが、、
禅の真髄もいわば、、逃げずに出会うこと、ただひらすらに行の中に入り込むといった、、─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ
一期一会というカギで以て、統合 (絶対) の扉を開くアプローチであると言って良いかもしれません、、
<ここ・今> は常に至福に満ちているわけではありません。
まったく至福どころではないということもあります。
それでも、逆説的ですが、すべてを今この瞬間にあるとおりにし、そこから離れずにいることで、
至福 (もしくは喜び、平安、愛、自由) が本当はどこに存在しているか、何がそれを見えなくしているのかに気づき始めます。
唯一の至福はこの瞬間の中心、まさにここにあるということが分かり始めます。
それから、苦しみとは、逃げること、
あるいは、至福をどこか別の場所で----「外側」 のどこかで-----未来のいつかに探し求めることだということも。
(ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ