というわけで、自分が今現れているもの (悪天候) を反射的に避け、
その瞬間、別の何か (晴れの日) を求めよう、あるいは、ここではないどこかへ逃げ込もうとするエネルギーを感じたときは、、
※そうした反応が起きているからと言って、自分自身を批判したり、落胆したりはする必要はなく、、
ただ静かに気づきを向け、その反応自体に本当に実体性はあるのかということを直に調べてみると良いでしょう、、
「調べる」、あるいは、「観察する」 というのは、、
その様子について、思考を引っ張り出し、あれこれと分析するといったことではなく、、
ただ単に、、気づいているということだけです、、
気づきそれ自体の観照性は、不確かなものに光を当てそれを明らかにする作用であって、、
多くの場合、、そうした習慣的で、反射的な反応の背後には何もなく、、
気づいた途端に、どこにもそれしている 「何か」 や 「誰か」 などは見当たらないということが見抜かれます、、
もちろん、そうであっても、、反応はそのまま続く場合もあれば、、
その反射的な一連の動きを手放す可能性が見出される場合もありますが、、
大切なのは、、躍起になって手放そうとすることではなく、、繰り返しになりますが、、
ただ単に、気づくということです、、
実際、気づいているというだけで、手放しは確実に起きていますし、、徐々にそうした習慣的な動きは土台を崩されていくでしょう、、
自分を追いかけてくる虎はただの幻影だと信じるのと、
実際に振り返って自分の目で見て虎がいるかどうかを確かめるのは、まったく違うことです。
自分の目で見るというのは、一度済ませれば終わりになることではありません。
虎が出てくるたびに起こり得ることです。自分と他の人たちを比べたり、
いつになった二度と虎に会わなくなるんだろうと考えたりするのは迷妄です。
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そして、この 「振り向いて向き合う」 というのは、
歯を食いしばりながら必死に取り組むような努力型の自己向上プロジェクトではありません。
それは明け渡すこと、くつろぐこと、開くこと、手放すこと、溶け去ることです。
まったく何もしないということです。 (ジョーン・トリフソン)
※平年より二週間ほど早いそうですが、本日ようやく雪国会津にも桜の便り届きました、、
今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ