自我にとって不快な経験などが起こると、
往々にして、すぐさま防衛性の反射が起こります、、(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
「自分を守るため」 という大義名分のもとに、
思考を使って 「自分」 の正当性を主張しようとしたり、
納得の行く理由や論理を導き出しては、それにしがみつき安定しようとします、、
あるいは、不快さの原因やその 「対象」 に対する、
負の感情、敵対心や怒りを握りしめながら、個体性はますます強化されていったりするわけです、、
ま、こうしたことも生のダンスであるとは言いながら、、
もし、こうした緊張や収縮に気がづいたとしたら、(ΦωΦ)
新たな可能性の片鱗が垣間見られることもあるかもしれません、、
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それは、何かにつけコントロールしようとする思考の流れを見つめ、、
それを改善しよう、そこから抜け出そう、それを手放そうとする一切の抵抗を放棄します、、
※これが本当の意味で、「手放す」 ということなのですが、、
ある意味では、、不快さの中に進んで留まろうとする意志とも言えるでしょう、、
身に降りかかるどんな出来事に対しても、
(自分にとって) 都合の良い何か、より安心できる 「どこか」 を求めようとする代わりに、、
そこから離れようとせず、それと共に在るとき、、(受容)
そこから行為が生じるとき、、あるいは、その開かれた体感で出来事に寄り添うとき、、
まるで、結び目がほどかれたかのようなスムーズさと共に、、
実に不思議な計らいが起きる様に出くわすこともあるかもしれません、、
私たちを自由にする発見とは、哲学でも信条でもありません。
それは、<ここ・今> という開かれたありかたの中で、想像上の問題が消えることです。
今この瞬間にただあるという単純さにくつろぐことができたとき、
何かが開きます。より大きな知性と調和します。
もっと正確に言えば、自分はこれとは別のものだという幻想が消え去ります。
これが、レナード・コーエンが
「自分の最高傑作を捨てて、真の <最高傑作> に入り込んでいく」
という言葉で示していたことです。人生をコントロールしようとするのをあきらめ、
考えることによって解放に辿り着こうとするのをあきらめて、
自分がすでにそうであるもの、そうでないことがありえないもの、
何の努力もなくひとりでに起こっている、
常に存在し続けながらすべてを包含するこの直接性にくつろぐのです。 (ジョーン・トリフソン)
※今日も読んで下さり、ありがとうございます!(#⌒∇⌒#)ゞ