お腹がへったのかな?
ウンチが出たのかな?
熱があるのかな?
親は赤ん坊の表現を
何とか聴き取ろうとします。
赤ん坊は泣く事が表現です。
人が居て他者が想定されれば
そこには常に表現があります。
もう一人の自分を想定して
表現している事もあります。
人は他者を想定して
他者に向い表現します。
また他者が表現している者と
とらえます。
表現手段は色々あります。
声、態度、
言葉、絵画、音楽etc
あらゆる人々が表現して
あらゆる人々がその表現に
耳をそば立てる人が多ければ
世間はそんなに生きにくいとは
思いません。
表現の自由が容認される社会です。
でもここには多くの問題があります。
その一つが
表現による暴力の存在です。
よく言葉の暴力という言葉も
使われます。
差別するために使われる差別語です。
差別語もそうなのですが
ほとんど力の暴力や数の暴力が
背景にあります。
チンピラクラスの暴力団が
絡んでくる時も
直接の暴力はなくても
「大人しく言う事きかなんだら
しばくぞ!(しゃーくぞ!)」
とか
「事務所行こか?」
みたいな暴力ふるうぞとか
バックにはもっと
恐ろしい仲間が多勢おるんやぞ
みたいな
いわゆる恫喝です。
多数派である側から少数派に
腕力も含め力のある者から
力の弱い者に向けられる表現は
攻撃的であればあるほど
ここに表現の自由はないと
思えるのです。
何故か?
多数派が少数派の表現を
力のある者がない者の表現を
抑えつけているからです。
実は攻撃的と意識していなくても
相手の表現を
抑圧している事があるのです。
それは多数派である事
力を持つ事がそれだけで
抑圧になっている事が多いからです。
表現の自由は
他者の表現の自由を守る所から
始まるのだと思います。