のりしろ | キドラの憂鬱と微笑

キドラの憂鬱と微笑

施設の介護の事 特に 認知症ケアの事
自分史 振り返り
ファンタジー文学

先日ふと思ったのは

記憶の中で一番古いことは

もう半世紀以上前の事です。

古い映像を

時々見ますが

ほぼ同時代だなぁと思って

見ています。

でその時代の青年や大人たちは

ぼくの父母の世代であり

祖父母の世代なのです。

で自分の子供世代は、

現在20代でさらに

半世紀以上は生きていくだろう人

が多いでしょう。

さらに曽祖父母やひ孫と

出逢う人生もあるでしょう。

そう考えると

自分の実人生の他に

直結した人生が

自分の前後100年くらいは

あるわけです。

歴史はその積み重ねなのですが

自分から見える範囲、

自分の記憶から引寄せることの

できる範囲

自分を記憶に残せる範囲

という意味では

自分の前後100年は自分に近いですね。

何か実感できる距離というか、

そんな気がします。

例えば「人権」という概念も

親や祖父母の時代から

深くなってきているのだと

思います。

そして今もその途上なのだと

考えられます。

「人権」意識が

自然に身に付いている部分と

意志的に意識しなければ

身に付かない事があります。

障がい者に対し

「かわいそう」みたいな意識は

憐れみとかそういう感情から

きています。

パラリンピックとかを例に

出すまでもなく、

「かわいそう」みたいな感情は

やはり違います。

その意識の変遷は

当事者やその周りの人々が

現状に不満を感じ変革しようと

する中で

少しづつ変わってきているのだと

思います。

自立支援という考え方も

おそらくぼくの親の世代や

祖父母の世代にはほとんど

無かったのではと

思います。

僕が若者だった頃

アメリカでその運動が

始まったと記憶しています。

障がい者の自立運動として始まり

援助者側からすると

その自立を支援するという事に

なります。

だからと言って、

親の世代、祖父母の世代が

まちがっているとは思いません。

そのことだけにおいて

その世代が存在したわけでは

ありません。

逆に、息子たちの世代から

批判される事が

僕たちの世代にもあるのでしょう。

また批判されることだけじゃなく

影響を与えてる事も

あると思います。

考え方を変えると

僕の人生は

過去の世代と未来の世代の

のりしろである

とも言えるのではないでしょうか?

そういう風に

世代がつながっていくと考えると

自分の前後100年も

とても愛おしいのです。