函館ちゃんちゃんこ物語14
毎年届く年賀状。その中には学生時代の懐かしい仲間のものもある。
ここ数年多くなったのが、「退職」の知らせだ。いつの間にかみんな年を取った。
道場海峡男(どうばうみお)は、ふと、大学の研究室の機関誌「学大地理」を本棚の隅から取り出した。色あせた機関誌だが、一瞬のうちに学生時代の記憶が蘇り、心がときめいた。
「ついに立ち上がったあの日」
(津軽海峡の夕陽)
午前2講義、午後2講義。
毎日朝8時から夕方5時近くまでびっちり勉強する毎日、勤勉な道場海峡男は誠実に、そして懸命に大学に通っていた。
本分の勉強はもちろん、仲間づくりや一人の生活も順調に進んでいる大学生活であるが、海峡男には一つ大きな悩みがあった。
中学時代から誰にもいわず、これからの人生をどう生きていこうか、その悩みが、人生に大きな影響を与えるのは間違いない、そう思っていた。
あの日の前日は、夕食後、自分の部屋で一人音楽を聴いていた。
「このままではダメだ。明日が勝負・・・」
大学は夏休みに入っていた。次の日は特に予定もなく、悩みの解決のためには持って来いの日だ。
海峡男は、あえて荒波に飛び込もうとしていた。
「いや、夏休みは始まったばかり、もう少し後でも・・・」
自問自答。決心が付かない。
結局、決心できないまま、夜はぐっすり寝て朝となった。
(心は冬景色)
そして、決断のあの日。
海峡男は、朝食を食べ、下宿仲間とは話もしないで部屋に戻った。
「さあ、今日だ!」
「しかし・・・」
まだ、踏ん切りが付かない。下宿仲間はみんな部活動の練習に出掛けていった。
天気のいい日であった。決断を妨害するものは何もない。
「よし」
思い切って腰を上げた。机の貴重品入れから必要なものを取り出した。
下宿屋の玄関を開け外に出ると、思っていたより暑い夏の空気と太陽の光が待っていた。
「うっ、暑い。条件がよくない・・・」
一瞬、気後れしそうになったが、踏みとどまった。
「いや、行く」
強い気持ちで歩き始めた。
下宿から出て日陰のない道を歩いて大通りをめざした。
とてつもなくつらい道のりである。天は、海峡男に試練を与えたような天気だ。
「やっぱり、無理・・・」
と思ったが、踏ん張った。
大きな保険会社のビルの日陰に入り、車がたくさん走っている交差点に来た。
信号は赤である。どこかほっとして信号をにらんでいた。
信号が青に変わった。
広い道路であるが、思っていたよりも早く横断歩道を渡り終えた。
「着いた・・・」
建物は違うが、小さい頃からずっともう二度と来るまいと心に誓った場所である。
小さめだが看板があった。
「・・・歯科」
そう、歯医者である。
小学校の時に拷問のような激しい治療で苦しめられた「歯医者」・・・忘れもしない「前田歯科」である。年齢はわからないが鬼の(ような)おばさん先生。
進行した虫歯であった奥歯の治療は、小さかった海峡男(当時は少年)にとって、地獄の日々であった。
歯の神経を抜くと言って、細い針のようなものを歯に突き刺し、グリグリ刺し進んでいく・・・。可愛い海峡男少年は声も出せず、もがき苦しんだ。
何日か通い、やっとのことで冠をかぶせて治療は終了した。その時の痛みと苦しさは海峡男少年のトラウマとなった。(注1)
しかし、激闘の末に、せっかくかぶせた奥歯の冠も、中学生になったある日、キャラメルを食べている時に取れた。その時にすぐに歯医者に行けばすぐに済んだものを、歯の治療の苦悩がトラウマになっていた、か弱い美男の海峡男少年にとっては、歯医者に行くことは、崖を飛び降りることと同じであった。
しばらく、キャラメルを恨んだ。
そうして月日が過ぎ、歯は確実に痛んでいった。
奥歯の冠が取れてから数年経ち、海峡男は、その日、重大な決心をして函館の「田村歯科」の前にいた。小さい頃からの苦しみが走馬燈のように脳裏を駆け巡った。
田村歯科の玄関の戸に手を掛けた。
電車の停留所がある交通量の多い交差点であるが、物音一つせず、静まりかえっていた。
高鳴る心臓の音。
深呼吸をして、戸を開け中に入った。
すると、
「午前の診療は終了しました。午後は14時からです。」
受付の立て札が目に入った。時計はもう昼の12時を過ぎていた。
下宿に帰って、貴重品入れに使えなかった保険証をしまった。
海峡男の悩みは、その日以後も続いた。
(注1)現在は最新の?技術により、痛みを感じさせないように治療しています。
続きます
※おことわり
この物語は、実際にあったかどうか疑わしいことを、作者の老化してぼんやりした記憶をもとに書かれていますので、事実とは全く異なります。登場する人物、団体、名称等は、実在のものとは一切関係はありません。
また、物語の中の写真はすべてイメージです。