令和4年3/5に割れてしまった殺生石にまつわる伝説。
ついに九尾の狐を討ち取った討伐軍。
何故かその遺体は、たちまち大きな石に変わったという。
確認の為に兵士が近付いた所、突然数人が倒れてしまった。
三将が様子を伺っていると、飛んでいた小鳥がこの石に近付いただけで地に落ちるのが判った。
どうやら石から何か“毒”が出ているようであった。
やむなく、三将は事の次第を京へ報告。
九尾の狐の遺体が変化した石の周囲は立入禁止とされたのである。
因みに、九尾の狐討伐軍を率いた三将は、その後…
三浦義明(右の馬上の人物)
九尾の狐討伐から約40年後、
1180年、平家打倒の為に挙兵した源頼朝に合流しようとしたものの、相模川の増水によって果たせず、
本拠地の三浦半島に一時帰還する途中、
由比ヶ浜で、当時はまだ平家方だった畠山重忠との遭遇戦に。
本拠地・衣笠城まで帰還するも、畠山重忠軍の追撃を受け、一族を逃がす為に衣笠城に残り奮戦の後、自害。
息子・三浦義澄(左側の鎧武者)は房総半島へ逃れ、
石橋山合戦で敗れた為に同じく房総半島に逃れた源頼朝と合流。
↓
千葉常胤
九尾の狐討伐から約40年後、
1180年、石橋山合戦で敗れ房総半島に逃れて来た源頼朝に合流。
源範頼軍配下で一ノ谷から九州方面まで転戦。
平家を倒した後、奥州合戦にも従軍。
鎌倉幕府御家人として1201年3/25まで存命。
享年・84歳。
↓
以上、令和4年の大河ドラマ“鎌倉殿の13人”を御覧になった方々にはよく知られているであろう、三将のその後である。
歴史は常に動いている。
