鎌倉・源頼朝の墓の隣の高台には、
3基のヤグラが。
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一番右のヤグラは、薩摩藩・島津家の初代“島津忠久”の墓。
島津忠久は、源頼朝の御家人で、薩摩&大隅の守護として九州に派遣された人物。

ヤグラの前の石碑には、江戸時代後期の安永8年(1779年)に、薩摩藩主・島津重豪が整備した事が書かれている。
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ヤグラ内部。
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ヤグラ内の五輪塔や、ヤグラを囲う石の瑞垣等は、皆、島津重豪が整備したという。

中央のヤグラは、鎌倉幕府初期の頃、源頼朝の信頼篤く、公文所(くもんじょ)の長官も勤めた大江広元の墓。

ヤグラの前には、
大江廣元 朝臣 入道(おおえひろもとあそんにゅうどう)の石碑。
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大江広元の墓の五輪塔や石の瑞垣は、
幕末に相模湾の海防を任されていた長州藩によって整備されたそうだ。

大江広元のヤグラの内部。
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大江広元のヤグラの左側には…

大江広元の四男・大江季光の墓。
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大江季光のヤグラの内部。
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何故、大江広元&季光の墓の整備を長州藩が手掛けたのか?
それは、長州・毛利家の御先祖が大江広元だからである。