そもそも、何故、
1669年6/21、メナシクルのシャクシャインが他部族にまで呼び掛けての一斉蜂起に到ったのか?




きっかけはシュムクルのウタフの死が、松前藩による謀殺ではないかと疑われた事なのだが、
これ程大規模な戦闘に発展してしまった理由はと言うと、
アイヌと和人の交易レートで、アイヌ側がかなり不利だった事に不満を募らせていたからに他ならない。

そもそも、当時は米が獲れなかった蝦夷地に於いて、アイヌの人々は、山での狩猟の成果や海産物を和人の持つ米と交換していたのだが、
商才を持つ和人が自分の都合の良いレートにしてしまったまま、これが慣例として続いていた。

アイヌ側も、各部族で争いが有り、一枚岩にはなっていなかった事も影響していたと思われる。

しかし、アイヌの人々も徐々に交換レートが自分達に不利である事に気付き始めたものの、
長く続いた交換レートを変える手立ても無いまま、ズルズルと時が過ぎてしまったようである。


『シャクシャインの戦い』がきっかけとなり、
少しはこの交換レートの見直しがされたようではあるが、まだまだ完全な物では無かったという。

また、それまでアイヌの人々は、自由に和人と交易をしていたが、これを機に、完全に幕府の統治の下、松前藩を通じての交易しか認められなくなった。

蝦夷地の統治が完全に幕藩体制下に組み入れられた事が良かったのか否か…
それはもう少し後の世に判明する。







歴史は常に動いている。