では、問題の核心。

隋書東夷伝倭国条では、607年以前の、
600年の遣隋使について書かれているにもかかわらず、
何故、日本書紀では、607年の遣隋使が
“第一回”とされているのか?

600年当時の隋書のこの辺りの記述を見ると、
倭王・阿毎多利思比孤からの使者は、
冠位は無く、国書も持たず、
倭王の政治執務の様子は、日ノ出前に宮殿に出るが、日が昇ると後は弟(太陽)にまかせて執務を止める…という、
隋の外交の常識からはかけ離れた状態であり、
そもそもの外交のイロハから教えられてしまう始末だったようだ。

これを知った大臣(おおおみ)・蘇我馬子や皇太子・聖徳太子(厩戸皇子)は、
603年に冠位十二階、
604年には憲法十七条を制定。

改めて607年に遣隋使として小野妹子を派遣する。

そして、600年の遣隋使の時には外交儀礼を知らぬまま隋に派遣した使者が、外交儀礼そのものを教えられて帰って来た事を
“恥”ととらえ、
最初の遣隋使の失態を“無かった事”にしてしまおうとして、
意図的に日本書紀には書かなかった…という事ではなかろうか?

隋書東夷伝倭国条の記述以外には、
物的証拠は何も無いが…。






歴史は常に動いている。