608年6月に百済で盗まれてしまったはずの、
隋からの国書。

日本書紀では、これを取り返した記述が一切無いまま、
8/12に飛鳥小墾田宮(あすかおはりだのみや※推古天皇の都)に到着した裴世清は、
何事も無かったかの様に推古天皇の重臣に国書を手渡している。

この約2ヶ月の間に何が有ったのか?

考えられる事としては、
国書を盗まれてしまった裴世清は、同行の小野妹子と相談し、国書を捏造したのではなかろうか?

倭王から使者として小野妹子が遣わされた事に対する返礼の意味も有る使者・裴世清が、さすがに隋の皇帝・煬帝からの国書も持たぬまま…という訳にはいかないだろう。

幸い、煬帝からの国書の内容は、小野妹子以下の倭(日本)側は誰も知らないハズ。
ならばせめて体裁だけでも整えようと、
裴世清は当たり障りの無い事を書いて、
これを隋からの“国書”としてシラを切ったのかも知れない。

勿論、小野妹子はこれを知っていただろうが、
飛鳥小墾田宮では素知らぬ顔で通したのだろう…。







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