607年の遣隋使(小野妹子)に対する返礼使(裴世清)が、
608年、来日する。
これは、隋書、日本書紀、共に記述が有る。
ただ、この時、あるトラブルに見舞われた事が
日本書紀にのみ書かれている。
608年、帰路に就いた小野妹子に同行する形で裴世清は日本に向かうのだが、
6月、百済で国書が盗まれたというのだ。
日本書紀には、これを取り返した描写は一切無いのだが、
日本に到着した裴世清は、国書を重臣に手渡し、これが宮中大門の前の机に置かれて推古天皇に奏上されたとなっている。
隋からの国書は百済で盗まれ、これは取り返してはいないにもかかわらず、
日本に到着した裴世清は国書を提出している…
一体、何故…?
歴史は常に動いている。