『隋書 東夷伝 倭国条』には、
日本書紀にも書かれている
607年の遣隋使の記述もある。
大業3年(607年)、其の王、阿毎多利思比孤、
使いを遣わし朝貢する。
「日出る処の天子、書を日の没する処の天子に致す。
恙なきや云々。」
煬帝は、
「蛮族の書は無礼な書きようだから、二度と取り次ぐな!」
と。
しかし、倭王の使者が
「菩薩の様な隋の皇帝が仏法を広めていると聞いたので、倭の僧侶に仏法を学ばせたい。」
と言うと、煬帝は大変喜んだ。
概ね、上記のとおりである。
大業3年(607年)当時の隋の皇帝は、
開皇20年(600年)当時の文帝から煬帝に代替わりしている。
そして、600年の時も607年の時も、
倭王は“阿毎多利思比孤”となっているのだが、
これは誰なのか??
当時の日本は、日本史上初の女帝“推古天皇”のはずなのだが、
“阿毎多利思比孤”(あめのたりしひこ?)は、
比孤(ひこ?)=彦…と、考えると、男性。
※女性ならば、姫or媛(ひめ)となるはず。
文帝や煬帝に使いを出したのは、
果たして推古天皇をトップに頂く大和王朝だったのだろうか?
歴史は常に動いている。