さて、日本書紀には疑ってかかるべき記述も有る事が判ったわけだが、
話を崇峻天皇暗殺実行当時の蘇我馬子に戻そう。

何故、時の天皇を暗殺した黒幕である事が明確である蘇我馬子が、全く糾弾されずに、
次代・推古天皇の頃に到るまで“大臣(おおおみ)”で居続けられるのか?
という問題についてだが、
日本書紀の不可解な記述から察するに、
蘇我馬子は崇峻天皇暗殺などという犯罪には、手を染めていないからではないか?

更に言えば、崇峻天皇は暗殺されたのではなく、実は病死、若しくは自然死の可能性も?

また、崇峻天皇5年(593年)11/3、
暗殺されたその日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に埋葬されたとされる崇峻天皇だが、
実はそれよりも前、
具体的にはその1ヶ月前の
“献上された猪の首を斬るが如く、憎い人物を斬りたい。”
と言ったとされる頃に病死、若しくは自然死という形で崩御していたのではないだろうか。

そして、実行犯とされる東漢直駒についてだが、
暗殺実行から程なく、
蘇我馬子の娘であり、崇峻天皇の妃でもあった
河上娘(かわかみのいらつめ)を奪った罪で
馬子に誅殺された事になっているので、
所謂“口封じ”で消されたと言われているが、
実は、東漢直駒という人自体が存在しない、
創作の人物なのかもしれない。
東漢氏(やまとのあやうじ)という一族は、確かに存在するが、その中に“駒”という人物を創作して組み込んだのではないだろうか。

何故、日本書紀に
崇峻天皇は暗殺され、
実行犯・東漢直駒はすぐに誅殺され、
その全体像を仕組んだのは蘇我馬子である…
と書かれているのかと言えば、
全ては、蘇我氏が昔から国家に仇為す大罪人であるという“印象操作”をして貶めたかった“藤原不比等”の目論みによって書かれたからではないか…?

ただ、
藤原不比等は、おそらくは蘇我馬子のスキャンダルらしき事を何も見付けられず、
たまたま馬子が大臣(おおおみ)で居る間に起こった崇峻天皇の崩御を利用して、
崇峻天皇暗殺事件というストーリーを考えた(捏造した)が故に、
それまでに馬子と崇峻天皇の間に溝が出来ている様子がまるで無い…とか、
暗殺の真犯人・蘇我馬子が大臣(おおおみ)で居続けている…とか、
話に無理が生じているのではなかろうか…?

日本書紀の不自然な記述から推察したもので、物的証拠は何も無いが…。







歴史は常に動いている。