日本書紀によると、
崇峻天皇5年(593年)11/3、
蘇我馬子の指示を受けた東漢直駒の手により、
崇峻天皇は暗殺されてしまい、
即日、倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られた事になっている。
ここで、不自然な記述にお気付きだろうか?
古代日本では、天皇崩御となれば、殯宮(もがりのみや)を建て、御遺体を暫く安置し、
然るべき時を選んで埋葬するのが常である。
“殯(もがり※今風に言えば、お悔やみ、喪に服する?)”の期間は一ヶ月~長ければ一年に及ぶ事も。
しかし、崇峻天皇は崩御(暗殺)されたその日のうちに葬られた事になっているのは、
あまりにも不自然と言わざるを得ない。
歴史は常に動いている。