蘇我馬子から指示を受け、崇峻天皇に直接手を下したとされるのが、
東漢“直”駒(やまとのあやの“あたい”こま)。
東漢氏は、応神天皇の頃の大陸からの渡来氏族で、
“後漢”を建国した“光武帝”劉秀の末裔を名乗る阿知使主(あちのおみ※後漢の霊帝の曾孫)を始祖とする一族である。
崇峻天皇の時代には、物部氏と双璧を成す実力者になっていた蘇我氏に臣従していたという。
日本書紀によると、
崇峻天皇5年(593年)11/3、蘇我馬子の指示で崇峻天皇を暗殺した東漢直駒は、
同月中に、蘇我馬子の娘で崇峻天皇妃でもあった河上娘(かわかみのいらつめ)を秘密裏に奪い、自分の妻にしてしまったという。
一方、蘇我馬子はというと、
河上娘の姿が見えなくなってしまったので、
最早この世に居ないものと思って諦めていたそうだが、やがて東漢直駒の仕業である事が露見し、
東漢直駒を誅殺してしまったと。
これだけを見ると、馬子が実行犯の駒を口封じの為に消した…ように見える。
しかし、それまで蘇我氏の忠臣として付き従ってきた東漢直駒が、
突然、馬子の娘、しかも崇峻天皇の妃でもある女性を無断で拐って行くのは、
如何にも不自然である。
歴史は常に動いている。