話は崇峻天皇の先代・31代の用明天皇の時代に遡る。

用明天皇2年(587年)7月、
大臣・蘇我馬子を中心とする勢力と、
大連・物部守屋の戦い、
所謂『丁未の役(ていびのえき)』が起こる。

丁未の役は、
“崇仏派の馬子”と“廃仏派の守屋”の対立という単純な構図では無く、
直前に崩御した用明天皇の後に、誰を天皇として擁立するかという政治的な問題も大きく関係していた。

この時、用明天皇の兄弟の中から穴穂部皇子(あなほべのみこ)を推したのが守屋、泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を推したのが馬子であった。

兄・穴穂部皇子は、当然、次代は自分だと思っていた所に、蘇我馬子が先々代・敏達天皇の皇后・豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ※後の推古天皇)を通じて弟・泊瀬部皇子を推し始めた事を聞いて激怒し、
宮中で悪態をついたという。

しかし、これを機に穴穂部皇子は孤立。
馬子は皇太后・豊御食炊屋姫の命令を遂行する形で穴穂部皇子を誅殺。
更に、物部守屋追討軍を編成し、自分の推す泊瀬部皇子もここに参加させた上で物部総本家を滅ぼしてしまった。

その後、同年8/2、泊瀬部皇子が即位。
(これが32代・崇峻天皇。)

この様な過去を鑑みるに、
崇峻天皇が馬子を憎いと言う理由や、
馬子が崇峻天皇から命を狙われていると考える理由は、
到底見出だせない。

にもかかわらず、何故、日本書紀は突然、崇峻天皇と蘇我馬子が対立していたかのような記述を遺したのだろうか…?








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