日本書紀によると、
崇峻天皇5年(593年)11/3、
東国から届いた貢物を受けとる儀式に出席した
崇峻天皇が、
東漢“直”駒(やまとのあやの“あたえ”こま)により暗殺され、
即日、倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られたという。

東漢 駒 に暗殺の指示をしたのは、大臣(おおおみ)・蘇我馬子。

その2日後の11/5、蘇我馬子から筑紫(九州)に駐屯する将軍達に、
『国内が乱れても外事を怠るな!』という命令が早馬で届けられている。

これは、歴史上唯一、皇位に在る者が臣下の者に暗殺されたケースと言われているのだが、
日本書紀の記述には不自然な点が見受けられる。

これから、この稀有な事件について考えてみたい。







歴史は常に動いている。