寛仁元年(1018年)6/20、
藤原道長の邸宅・土御門殿が再建され、その家具調度品一切を源頼光が揃えたという。

翌年の寛仁2年(1019年)2/18、道長は頼光に馬を贈っている。
※この年、北九州に押し寄せた武装集団を、藤原北家の“さがな者”当時の大宰権帥・藤原隆家が在地武士団を率いて撃退するが、朝廷がこれを知るのは撃退後の事である。(刀伊の入寇)

治安元年(1021年)7/19、源頼光死去(74歳)。
最終官位は正四位下摂津守。
摂津国に在任中であった。

墓所は、
現・兵庫県川西市多田院の多田神社内。
父・満仲の墓所と隣り合っている。

源頼光の直系子孫には、
妖怪“鵺(ぬえ)”退治の逸話を持ち、
以仁王の平家追討の令旨に呼応して挙兵したものの、宇治橋で討死する源頼政がいる。

また、頼光の弟・頼信の子孫から、
鎌倉幕府初代将軍・頼朝が出る。

いずれにせよ源頼光は、後の世に数々の逸話を遺す清和源氏の礎を築いたと言えよう。







歴史は常に動いている。