正暦3年(992年)、藤原道長に臣従していた
源頼光は、備前の国司となるが、
春宮権大進と兼任であった為、任地には行かず
“遙任”という形をとる。

(※因みに翌年、993年には、大宰府に左遷され任地で死去した後、天神様と呼ばれ恐れられた、あの菅原道真に正一位・太政大臣が追贈されている。)

長徳2年(996年)1/16、
藤原道隆の長男・伊周(これまさ)が、弟の隆家に花山法王を襲撃させる事件が起こる。

原因は、亡き太政大臣・藤原為光(師輔の九男)の娘・三の君の所に通う正三位・内大臣の伊周が、
同じ家に住むもう一人の娘・四の君の所に通う花山法王を見て、
花山法王が三の君に手を出していると勘違いし、
弟の従三位・権大納言の隆家に相談した結果、隆家は自身に臣従する武士達を連れて花山法王が乗る牛車を襲撃し、矢を射懸けた事に端を発する。

法王(かつては皇位に就いていた)を襲撃したとあっては、ただでは済まないと思われたが、
花山法王側は、出家の身でありながら女の所に通っていたという事が後ろめたかったらしく、
殊更騒ぎ立てる事は無かったらしい。

しかし、この一件を知った
当時右大臣だった藤原道長は、この醜聞を利用して同年4月には伊周を大宰府に、隆家を出雲に左遷したのである。

この時、源頼光は、左近衛大将を兼任していた藤原道長によって宮中警備に駆り出されたという。

この一連の事件は、結果的に藤原北家内部の勢力争いとなり、
後に“長徳の政変”と呼ばれる事となる。

※因みに、この当時から“さがな者(荒くれ者)”と呼ばれていた藤原隆家は、
後に北九州を襲った武装集団を、現地武士団を率いて撃退する。(刀伊の入寇)






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