承和9年(842年)7/25、
藤原愛発が外冠~京外追放となり空席となった
大納言に、繰り上がる形で昇進したのが
藤原良房であった。

この一連の騒動により、
藤原氏のライバルとなる古来からの名族、
橘氏や伴氏(元・大伴氏)等ばかりでなく、
藤原一族内でも、良房のライバルとなり得る人々が大量に左遷された事によって、
藤原良房の一人勝ち状態となった。

皇太子を担いでの反乱とされた事に端を発する一連の騒動からの大量左遷の結果、
藤原良房が大納言(兼・右近衛大将)にまで昇進したのは、
偶然の産物なのか、
良房にコントロールされた結果なのか…。

因みに、通常の朝議では、
左大臣・右大臣・内大臣の次が大納言で、
議長は左大臣、左大臣不在ならば右大臣が、
左右両大臣不在の時は大納言が議長役を勤める事になっている。
(内大臣は議長代行の権限が無い。)

藤原良房は、
朝廷内部で
スピード出世の結果、かなり大きな権限を持つ事になったわけである。
(その後、皇族を除く人臣初の“摂政”にまでなる。)

この一連の騒動は、その後“承和の変”と呼ばれる事になり、
後に藤原良房が人臣初の“摂政”となる時点が、
藤原北家の摂関政治の始まり(良房の子孫達が朝廷中枢の要職を占めるようになる。)とも言われるようになる。





歴史は常に動いている。




参考までに、
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