承和9年7/23、
東宮(皇太子の御座所)を包囲した
左近衛少将・藤原良相(藤原良房の弟)は、
そこに集まっていた
大納言・藤原愛発(藤原北家)
中納言・藤原吉野(藤原式家)
参議・文室秋津(坂上田村麻呂と共に“薬子の変”を鎮圧した後、蝦夷征討を本州最北端まで完了させた“文室綿麻呂”の弟)
少納言・藤原秋常(藤原南家)
等を捕縛。
その他、皇太子・恒貞親王に仕える官人も捕縛。
橘氏を6名、紀氏を2名、坂上氏を2名等、
合計捕縛数は39名に及んだ。
藤原愛発(あらち)は冠位剥奪の上、京外追放。
伴健岑は隠岐へ配流。
伴健岑の盟友・橘逸勢(空海が留学僧として乗った遣唐使船に留学生として同乗)は配流先の伊豆へ向かう途中で病没。
その他はほとんどが地方へ左遷となった。
伴健岑や橘逸勢は、拷問を受けたものの罪を認めなかったそうだが、
仁明天皇から両者を謀叛人とする詔勅が出された。
更に、皇太子・恒貞親王には罪は無いものの、
この混乱の責を追っての“廃太子”の詔勅が出された。
歴史は常に動いている。