阿保親王は、平城上皇の皇子だったが、
大同5年(810年)9月、“薬子の変”で敗れた平城上皇に連座する形で、
大宰権帥(だざいごんのそち※大宰府の次官)として北九州に左遷されていた。

“薬子の変”から14年後の
弘仁15年(824年)7/7、
出家していた平城上皇が南都(旧・平城京)で崩御してから京に戻る事が許されていた。

承和9年(842年)7月当時、
阿保親王は弾正台のトップ“弾正尹(だんじょういん)”として、
太政大臣を除く全ての官人・役人の不正を探る“監察”的な立場に有った。
(※検非違使が創設されてからは、皇族の名誉職に。)

そんな弾正尹・阿保親王の所に、
春宮坊帯刀舎人・伴健岑(とものこわみね)が駆け込んで来たのは、
弾正台が太政官から独立した監察組織だったからであろう。

なぜなら、
議政官の一員・中納言までスピード出世した
“藤原良房”を“敵”として意識していたからに他ならない…。





歴史は常に動いている。