承和9年(842年)7月初頭、
淳和上皇は既に亡く、嵯峨上皇が病に倒れると、
皇太子・恒貞親王(先代・淳和天皇の皇子)に仕える
春宮坊帯刀舎人・伴健岑(とものこわみね)は、
自身の仕える皇太子の立場が危うくなると感じていた。
これまで、桓武天皇以降、皇位は兄弟の子孫による迭立が慣例となっていたが、
淳和&嵯峨、両上皇が居なくなれば、
恒貞親王は廃太子とされ、
現・仁明天皇と中宮・順子(藤原良房の妹)の子・道康親王が新たに立太子となる可能性が出てきたので。
なにしろ、
道康親王は、スピード出世の藤原良房の甥でもある。
7/10、
伴健岑は、皇太子・恒貞親王の身が危ういので、皇太子を東国へ逃がすのに手を貸して欲しいと、ある人物に声をかけた。
それは、“薬子の変”で敗北して出家した
“平城上皇”の皇子・阿保親王であった…。
歴史は常に動いている。