承和2年(835年)3/21
かつて“薬子の変”の時に、
嵯峨天皇側に立って“必勝祈願”の祈祷をした
“空海”が、高野山で禅定に入った。
(入定※悟り・如来の境地を目指して、全てを廃し修行に邁進する。この令和の時代になっても、高野山奥の院の地下で修行が続けられている…死んではいない。)
承和7年(840年)になると、淳和上皇が崩御。
同年、藤原良房は中納言となる。
朝議に参加できる最低限の官職・参議を一年、
そして権中納言を一年を経ただけの、
所謂、スピード出世と言えよう。
(父親・藤原冬嗣の仕えた嵯峨上皇からの信任によるところが大きかったとも言われている。)
その2年後の承和9年(842年)7月に入ると、
嵯峨上皇が病に倒れる。
これを機に、
皇太子・恒貞親王の身辺の世話をする
“春宮坊帯刀舎人”伴健岑(とものこわみね)が
ある行動に出た…。
歴史は常に動いている。