藤原四兄弟が天然痘で病死した翌年、
738年、かつて長屋王を密告して恩賞を受けた中臣東人が斬殺されるという事件が起きたという。

犯人は、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫という人物だった。

当時の二人の関係は、
中臣東人は、左右に分かれた兵庫寮(ひょうごりょう※官製武器の管理をする)のうちの、右兵庫寮のトップ・右兵庫頭。
大伴子虫は、隣の左兵庫寮の第四席・左兵庫少属で、
休憩中に碁を打っていたそうだ。

しかし、その途中、話題が長屋王の事に及ぶと、大伴子虫は激昂し、太刀を抜いて中臣東人を斬殺してしまったという。

これは、日本書紀の次の歴史書・続日本紀(しょくにほんぎ)に書かれているのだが、
そこには大伴子虫が罰せられた様子は無く、
中臣東人が『誣告(ぶこく)』をした人で、
『誣告』の罪を犯した者は死罪と記されている。

『誣告(ぶこく)』とは、現代風に言えば、虚偽の告訴によって相手を貶める事である。

これは則ち、続日本紀が成立した時、長屋王は無実の罪で断罪されたという事が事実として広く認識されていた証しと言えるだろう。


また、“長屋王の変”当時、不自然な事も有った。

一つは、当時の式部卿・藤原宇合が六衛府の兵を大量動員して長屋王邸を包囲した時。

藤原宇合が私的に雇った私兵ではなく、
都を護る正規兵である六衛府の兵を30人以上動かすには、“勅令”が必要だという事だ。

これを迅速に可能にするには、聖武天皇が事前に“変”を知っていたのではないかという疑いも出てくる。

そして“変”の後、反逆の罪で処刑(実際は詰め寄られての自害)された長屋王一族を、聖武天皇は皇族として丁重に葬るように指示したという。

因みに、長屋王の妃の中でも、藤原長娥子、及び長娥子の生んだ子達は、
全く罪に問われてはいない。

ここまで来ると、聖武天皇が深く関わっていたのでは…とまで勘繰りたくもなるが、
藤原四兄弟のぼぼ同時の病死、そして、中臣東人が斬殺される事により、
真相は闇の中となってしまった。

ただし、律令国家の公式記録・続日本紀により、中臣東人の密告が『誣告』だった事だけが事実として書き残されている。


その後、長屋王の血筋は臣下降下し、
“高階(たかしな)氏”という中級貴族として生きていく事となる…。




歴史は常に動いている。