皇太子・基王が満一歳になる前に薨去してから5ヶ月後の、
729年2月10日、中臣東人&漆部君足から、
ある情報がもたらされた。
内容は、
“長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けようとしている。”
というものである。
“左道”というのは、常識に反する事、
時の体制に反する事という意味で、
具体的には、前年に基王を呪詛したというものだったようだ。
これを聞いた当時の文官人事や朝廷の式礼を司る、式部省のトップ・式部卿の職に有った藤原宇合(ふじわらうまかい※不比等の三男)は、
2月12日に六衛府の兵を率いて長屋王邸を包囲したという。
そして、藤原宇合や知太政官事・舎人親王の詰問の結果、
左大臣・長屋王とその妃の一人・吉備内親王、そして吉備内親王が生んだ4人の息子達は首を括って自害してしまった。
あまりにも呆気ない最期であった。
歴史は常に動いている…。
729年2月10日、中臣東人&漆部君足から、
ある情報がもたらされた。
内容は、
“長屋王が密かに左道を学び、国家を傾けようとしている。”
というものである。
“左道”というのは、常識に反する事、
時の体制に反する事という意味で、
具体的には、前年に基王を呪詛したというものだったようだ。
これを聞いた当時の文官人事や朝廷の式礼を司る、式部省のトップ・式部卿の職に有った藤原宇合(ふじわらうまかい※不比等の三男)は、
2月12日に六衛府の兵を率いて長屋王邸を包囲したという。
そして、藤原宇合や知太政官事・舎人親王の詰問の結果、
左大臣・長屋王とその妃の一人・吉備内親王、そして吉備内親王が生んだ4人の息子達は首を括って自害してしまった。
あまりにも呆気ない最期であった。
歴史は常に動いている…。