三世一身法施行の翌年、
724年2月、
聖武天皇が即位した。

同時に、長屋王は正二位・左大臣に昇進。
正に人臣を極めた存在となる。

聖武天皇は即位してすぐに、
実母・藤原宮子(不比等の長女&文武天皇妃)を“大夫人(だいぶにん)”と呼ぶ勅令を出した。

しかし、翌月、これに異を唱えたのが長屋王である。

その内容は、
『天皇の生母は、公式令(くしきりょう※この時代の養老律令に附随する規定)では、“皇太夫人(こうたいふじん)”となっているから、
“大夫人”と呼ぶと公式令違反となる。
しかし、公式令に則って“皇太夫人”と呼ぶと、勅令違反となる。』
という事だった。

これは、正論と言う他無い。

どちらにしても、公式令か勅令に反する事になってしまうのだ。

結果的に、聖武天皇は勅令を撤回したそうである。

この時の十二支十干に則って、後にこの騒動は、
『辛巳事件(しんしじけん)』と呼ばれる事となるのだが、
たとえ左大臣とは言え、臣下の者が天皇の命令である“勅”を撤回させたという事で、
これが朝廷内で長屋王に対する反対勢力を作り出すきっかけになったとも考えられる。



歴史は常に動いている…。