長屋王の公民貧困対策は、翌年も続いた。
後に、坂上田村麻呂が名を遺した、
東北の蝦夷が大規模蜂起したケース程では無いが、
当時は隼人や蝦夷の小規模な反乱が頻発していた。
その反乱鎮圧の為に兵士として派遣され、
そこで戦死した公民の父子には、一年間の“租”が免除された。
また、公民から徴兵される“衛士府(えじふ※宮廷の外郭を護る役目)”の役務期間が長く、逃亡者が後を断たなかったので、
衛士府の役務期間を三年で区切る事にした。
更には、日向・大隅・薩摩の三国は、
かつての“白村江”敗戦のコンプレックスがまだ残っていた為に、“防人(さきもり)”の兵役負担が特に重かったので、
三年間に渡って“租”を免除した。
そして、723年、貧困の根本的な解決策として出されたのが、
『百万町歩開墾計画』であった。
歴史は常に動いている…。
後に、坂上田村麻呂が名を遺した、
東北の蝦夷が大規模蜂起したケース程では無いが、
当時は隼人や蝦夷の小規模な反乱が頻発していた。
その反乱鎮圧の為に兵士として派遣され、
そこで戦死した公民の父子には、一年間の“租”が免除された。
また、公民から徴兵される“衛士府(えじふ※宮廷の外郭を護る役目)”の役務期間が長く、逃亡者が後を断たなかったので、
衛士府の役務期間を三年で区切る事にした。
更には、日向・大隅・薩摩の三国は、
かつての“白村江”敗戦のコンプレックスがまだ残っていた為に、“防人(さきもり)”の兵役負担が特に重かったので、
三年間に渡って“租”を免除した。
そして、723年、貧困の根本的な解決策として出されたのが、
『百万町歩開墾計画』であった。
歴史は常に動いている…。