長屋王が大納言に昇進してからは、
朝廷内では目立った動きは無く、
表面上は安定していたようである。
しかし、それから二年後の720年、
長屋王を越える唯一の権力者・藤原不比等が死去。
翌年の721年、
長屋王は従二位・右大臣に昇進する。
長屋王は、これで人臣のトップに立つ事となった。
因みにこの頃、不比等の息子達、
所謂、藤原四兄弟はまだまだ若く、
三男・宇合(うまかい)、四男・麻呂(まろ)に至っては、朝議に参加できる立場ですら無い。
同年11月、元明上皇(父を天武天皇、母を持統天皇に持つ、早折したかつての皇太子・草壁皇子の妃)が、死期を悟ったのか、長屋王と藤原四兄弟の二男・房前(ふささき)を呼び、事後を託し、
房前を内臣(うちつおみ)に任じて元正天皇(草壁皇子の娘)の補佐を命じたという。
こうして、宮廷内の事は内臣・藤原房前に、
宮廷外の国政や外交等は右大臣・長屋王へと、役割分担がされたと言えよう。
翌月、元明上皇が崩御すると、
長屋王は、天武天皇の子の中でも、一番長生きしたという当時の知太政官事(ちだじょうかんじ※太政官の役人のトップで現在の事務次官クラスか)の舎人親王と共に、律令制の維持と同時に、公民の貧困対策を打ち出したという。
長屋王政権の発足と言っても良い状況である。
ただしこれは、藤原不比等が採った政策の踏襲でもあった。
歴史は常に動いている…。
朝廷内では目立った動きは無く、
表面上は安定していたようである。
しかし、それから二年後の720年、
長屋王を越える唯一の権力者・藤原不比等が死去。
翌年の721年、
長屋王は従二位・右大臣に昇進する。
長屋王は、これで人臣のトップに立つ事となった。
因みにこの頃、不比等の息子達、
所謂、藤原四兄弟はまだまだ若く、
三男・宇合(うまかい)、四男・麻呂(まろ)に至っては、朝議に参加できる立場ですら無い。
同年11月、元明上皇(父を天武天皇、母を持統天皇に持つ、早折したかつての皇太子・草壁皇子の妃)が、死期を悟ったのか、長屋王と藤原四兄弟の二男・房前(ふささき)を呼び、事後を託し、
房前を内臣(うちつおみ)に任じて元正天皇(草壁皇子の娘)の補佐を命じたという。
こうして、宮廷内の事は内臣・藤原房前に、
宮廷外の国政や外交等は右大臣・長屋王へと、役割分担がされたと言えよう。
翌月、元明上皇が崩御すると、
長屋王は、天武天皇の子の中でも、一番長生きしたという当時の知太政官事(ちだじょうかんじ※太政官の役人のトップで現在の事務次官クラスか)の舎人親王と共に、律令制の維持と同時に、公民の貧困対策を打ち出したという。
長屋王政権の発足と言っても良い状況である。
ただしこれは、藤原不比等が採った政策の踏襲でもあった。
歴史は常に動いている…。